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【CHRISTIANITY TODAY】牧師の誘惑──罪は目に見えるが、その根は見えない(対訳)
ヘンリ・ナウエンは著書『イエスの御名で』の中で、イエスがサタンの誘惑にあったことに触れ、現代のクリスチャンの指導者にも同様のことが起こりうると述べている。「石をパンに変えよ」という最初の誘惑は「能力を示すことへの誘惑」だとナウエンは言う。

2018年11月14日 患難との戦い(コリントの信徒への手紙二 11:16-33)
もう一度言います。だれもわたしを愚か者と思わないでほしい。しかし、もしあなたがたがそう思うなら、わたしを愚か者と見なすがよい。そうすれば、わたしも少しは誇ることができる。 わたしがこれから話すことは、主の御心に従ってではなく、愚か者のように誇れると確信して話すのです。 多くの者が肉に従って誇っている ...
「死後に天国に行く」のは聖書的なのか N・T・ライト著/中村佐知訳『驚くべき希望』(あめんどう)
新刊『驚くべき希望』(あめんどう)で、「死後に天国に行く」との考え方がいかに聖書的でないかを、新約学者N・T・ライトが丁寧に解き明かす。それだけでなく、いま生きている私たちも、「驚くべき希望」を持って復活のいのちに生きることができると語る。
「悲しみは喜びに変わる」金性済NCC総幹事、「朝鮮半島の平和のための円卓会議」でメッセージ
/ 国際
「朝鮮半島の平和のための円卓会議」が9日から11日にかけて米国ジョージア州アトランタで行われ、90歳を超えたジミー・カーター元大統領の講演などが行われた。
へりくだった「僕(しもべ)」としてのクリスチャン・リーダー
キリストはその働きの初めに荒れ野を通られた。キリストのリーダーシップは、十字架、荒れ野、ロバに象徴される。主イエス・キリストはへりくだり、そして僕たることを受け入れられた。キリストのリーダーシップは、この世界の支配者とは違っていたのだ。
パキスタンで死刑判決の女性クリスチャン 逆転無罪に
パキスタン最高裁判所は先月31日、2010年にイスラム教に対する冒とく罪で死刑判決を受けていたクリスチャン女性のアーシア・ビビさんに無罪判決を下した。
松任谷正隆さん「主の祈りで聖書の時代と私たちがつながっている」映画「パウロ──愛と赦しの物語」
映画「パウロ──愛と赦(ゆる)しの物語」(アンドリュー・ハイアット脚本・監督)公開初日の3日、音楽プロデューサーの松任谷正隆(まつとうや・まさたか)さんのトーク・イベントが東京のヒューマントラストシネマ渋谷で開催された。
仙台白百合女子大学 キリシタン巡礼バス遠足 クリスチャン武将、後藤寿庵の足跡を訪ねて
仙台白百合女子大学(宮城県仙台市)が3日、キリシタン巡礼バス遠足を実施し、ガイド役として日本基督教団牧師の川上直哉(かわかみ・なおや)さんが同行した。岩手県にあるクリスチャン武将後藤寿庵(ごとう・じゅあん)ゆかりのキリシタンの里などを訪れた。
2019年度「世界平和の日」のテーマは「平和に奉仕する良い政治」
全世界のカトリック教会では毎年1月1日を「世界平和の日」として、特別に平和のために祈るが、教皇フランシスコは7日、来年度「世界平和の日」のテーマを発表した。それは「平和に奉仕する良い政治」(仮訳)。

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投稿日:2017年4月4日 更新日:

2018年11月14日 患難との戦い(コリントの信徒への手紙二 11:16-33)

もう一度言います。だれもわたしを愚か者と思わないでほしい。しかし、もしあなたがたがそう思うなら、わたしを愚か者と見なすがよい。そうすれば、わたしも少しは誇ることができる。

わたしがこれから話すことは、主の御心に従ってではなく、愚か者のように誇れると確信して話すのです。

多くの者が肉に従って誇っているので、わたしも誇ることにしよう。

賢いあなたがたのことだから、喜んで愚か者たちを我慢してくれるでしょう。

実際、あなたがたはだれかに奴隷にされても、食い物にされても、取り上げられても、横柄な態度に出られても、顔を殴りつけられても、我慢しています。

言うのも恥ずかしいことですが、わたしたちの態度は弱すぎたのです。だれかが何かのことであえて誇ろうとするなら、愚か者になったつもりで言いますが、わたしもあえて誇ろう。

彼らはヘブライ人なのか。わたしもそうです。イスラエル人なのか。わたしもそうです。アブラハムの子孫なのか。わたしもそうです。

キリストに仕える者なのか。気が変になったように言いますが、わたしは彼ら以上にそうなのです。苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。

ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。

鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。

しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、

苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。

このほかにもまだあるが、その上に、日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります。

だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか。

誇る必要があるなら、わたしの弱さにかかわる事柄を誇りましょう。

主イエスの父である神、永遠にほめたたえられるべき方は、わたしが偽りを言っていないことをご存じです。

ダマスコでアレタ王の代官が、わたしを捕らえようとして、ダマスコの人たちの町を見張っていたとき、

わたしは、窓から籠で城壁づたいにつり降ろされて、彼の手を逃れたのでした。

(コリントの信徒への手紙二 11:16-33)

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