【毎月1日連載】牧会あれこれ (28) コロナ禍が起こした教会の新しい変化

最近、コロナ禍は個人の人生のみならず、社会・経済状況、医療、福祉、教育の分野に至るまで大きな変化を与えた。今まで、当たり前のこととして、さほど気にも留めなかったことが、突然浮上してくるのに驚く。その上、なにげなく交わしていた握手、電車に乗る時、隣に空いた座席があるかと思い、帰宅すれば手をアルコール消毒したかなどと気にしている日常も当たり前のようになってきた。三密などという言葉も飛び交い、人との接触に気を使う。これまで気にしなかったことが、日常の中に溶け込んで来た。結果として、人と人との触れ合いを気にする日常が増えていく。コロナ禍の中を生きるための習わしが常識になるとすれば恐ろしいことだ。

教会も例外ではない。最近の礼拝事情をネットでいろいろ探ってみると、人数を絞って礼拝をする教会が殆どである。教会という存在は大人数になることをもってよしとすることを当たり前のように考えてきたのが逆転している。もちろん、そこにはコロナウイルスからの感染を避けるという意図があることは当然ながら、礼拝に出席すると何となく不自然な気持ちを感じるのを否めない。ライブ配信を実施して、なるべく大勢の人に礼拝参加を望む意図から在宅でも礼拝に参加できる配慮をしている教会も少なくはないが、パソコン画面と一人向き合うのは何となく寂しい。何時ものように、人が集う礼拝に参加したいという欲求は押さえがたい。一階の礼拝の人数を制限して礼拝の回数を増やす工夫をしている教会もある。端的にいえば、教会を小人数に分けて礼拝をしているのである。

こうしたコロナ禍の下で礼拝を守ろうとする教会のあり方は、人間関係が疎遠になったというマイナス要因を生んだだけであろうか。そこには意外にも思わぬ利点を生み出している。人間関係が疎遠になったので相互の安否を確かめるため、電話をしたり、手紙やメールを送ったりする機会が多くなっている。また、少グループ制の礼拝は、礼拝参加者に礼拝についての関心を従来にも増して深めている。礼拝の形はこのままでよいのか、サクラメントのあり方はどうか、教(聖)職者の説教、礼拝司式上の所作事に至るまで、今まで気にも止めなかったことに思いが行くようになっている。ある意味、礼拝の質を高める動きが顕在化いると言ってよいのではないだろうか。こうした動きは、コロナ禍が生み出した副産物かも知れない。しかし、教会をして教会たらしめる好機が到来しているとも言える。だとすれば、副産物どころか、主産物が生まれているのである。神のなさることは、人知を越える。

 






メルマガ登録

最新記事と各種お知らせをお届けします

プライバシーポリシーはこちらです

 

オンライン献金.com