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【夕暮れに、なお光あり】 あいさつ 小島誠志 2020年8月11日

キリスト新聞社ホームページ

 朝と夕、食後に散歩するようにしています。糖尿病のため、散歩はしなければならないのです。

 近所は元々農村地帯であったところにバタバタと家が建った急造の住宅地なので、道が入り組んでいます。かつてあぜ道だったと思われる小路が縦横に走っていて、ぐぐっと曲がっていたり、突然、畑や稲田が現れたり、行き止まりだったり、変化に富んでいて散歩には絶好の条件がそろっています。

 ところが困ったことが一つ。変化に富んだ風景の中に人が現れるのです。出勤しているサラリーマン、近くの大学や高校に通っている学生、当方と同じように散歩している人、犬を連れた女性……。そういう人たちが向こうからこちらに向かってやって来るのです。

 生来の人見知りの性格で、当惑してしまいます。当初は、あらぬ方に視線をそらしやり過ごしていました。これを繰り返していると、どうにも後味が悪い。「神の言葉を人に取り継ぐ牧師ではないか」という声が、自分の中から聞こえてくる……。一大決心をしました。

 「あいさつをしよう!」

 途中に行き交う人にあいさつをするようにしました。

 「おはようございます!」
 「こんばんは!」

 たいていは、あいさつをすればあいさつが返ってきます。返ってこないこともあります。しかし、時には中学生の男の子が「おはようございます!」と元気に声をかけてきます。ふっと気持ちが温かくなって、思います。「あと50年、この日本も大丈夫だ」と。

 あいさつはそれほど難しいことではありませんでした。それどころか、あいさつを交わすたびに、窓が一つひとつ開いてくるような気分になりました。

 黙って目をそらしながら行き交っている時、相手のことを、「素性の分からぬ怪しい人間」と思っていたのだろうと思います。要するに「他人」なんですね。

 ところが、「おはよう」「おはようございます」とあいさつを交わす時、「他人」が、血の通った、喜怒哀楽を共に生きている「隣人」になるのです。

 散歩しているのはたいてい高齢(樸と同じ)の方です。そういう方には特に心がけてあいさつするようにしています。あいさつすると、うつむきがちに歩いていた人が顔を上げます。顔に光が射したような表情になります。

 ぼくは心の中でこう呼びかけています。「お互い今日も生かされてますよね。ご同輩、元気にいきましょう!」

 「聖なる口づけをもって、互いに挨拶を交わしなさい」(ローマ16:16)

 口づけとまではいきませんが、あいさつは、父なる神のもとにあって互いに兄弟姉妹である、という証しの始まりだと思います。

 おじま・せいし 1940年、京都生まれ。58年、日本基督教団須崎教会で受洗。東京神学大学大学院卒業。高松教会、一宮教会を経て81年から松山番町教会牧師。96年から2002年まで、日本基督教団総会議長を3期6年務める。総会議長として「伝道の使命に全力を尽くす」「青年伝道に力を尽くす」などの伝道議決をした。議長引退後は、仲間と共に「日本伝道会」を立ち上げて伝道に取り組む。現在、愛媛県の日本基督教団久万教会牧師。著書に『わかりやすい教理』『牧師室の窓から』『祈りの小径』『55歳からのキリスト教入門』(日本キリスト教団出版局)、『夜明けの光』(新教出版社)、『夜も昼のように』『わたしを求めて生きよ』『朝の道しるべ』『虹の約束』(教文館)など多数。

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