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【宗教リテラシー向上委員会】 ウィズコロナ時代の教会(3) 川島堅二 2020年11月1日

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教会がコロナ禍にどのように向き合うか、「ミニストリー」誌(Vol.45)特集記事で展開された専門家諸氏の主張は二つに大別される。

一つは、芳賀力氏(東京神学大学学長)に代表される「今は耐え待ち望むべき時」という主張である。17世紀のペストの流行、20世紀初頭のスペイン風邪など「人類は何度もこうした危機に見舞われてきた」。しかし、この「教会のコロナ捕囚」もやがて終わる。「神がご自分の民を見捨てることは決してない」。ふたたび対面での礼拝を再開できる日が遠からず来ることを信じ、じっとその日を待ち望もうという主張である。

その対極にあるのが、コロナ禍によって、教会はもはや逆戻りできない事態への対応を迫られているという主張である。「これまで築いてきた教会論、礼拝論はリセットされた」という中道基夫氏(関西学院大学教授)の主張は前回紹介したが、徳田信氏(同志社大学神学研究科博士課程)は、近代化に伴う「教会と社会の構造変化」という観点からコロナ禍における教会の課題を論じている。「地縁的連帯から契約的結束へ」「地理的教会から人格的教会へ」「教会税から自由献金へ」「体制的プリースト(司祭)から実力的プリ―チャー(説教者)へ」、近代化の進展とともに教会はさまざまな変化、とりわけ「自由の拡大」に直面してきたが、このコロナ禍、その歯車がまた一つ大きく進展した。それはもはや後戻りできない事態であり、この「与えられた自由(スマホやZoom)をいかに適切に使うことができるのか」、それがアフターコロナの教会の神学的課題であるという。

新約聖書において教会を特徴づける定型句が「同じ場所に集まる」ということ(芳賀力氏)、それは確かだろう。前世紀90年代半ばからインターネットが世界的に普及し、教会もその影響を受けながら、しかし、多くの教会指導者たちは「対面での礼拝」「顔と顔を合わせて」の伝道をかけがえのないものとして伝道の中核に位置付けてきた。しかし、世界的にコロナ禍の終息が見通せない現在、「遠隔」は「非常時」、「対面」が「常時」といった二項対立ではない発想が求められている。

【Ministry】 全42ページ総力特集「コロナ禍と向き合う――『新しい教会様式』の模索」 45号(2020年6月)

この点で示唆に富むのが、前述した「ミニストリー」誌における濱野道雄氏(西南学院大学教授)の論考である。氏は、聖餐式を通してイエスの身体性に与る私たちは「イエスとの共存をかねてからリモートで行ってきた」と述べ、ある意味「遠隔」は礼拝の本質的構成要素であるという。そして「オンライン礼拝には身体性や、相互性、共同体性が欠如している」という批判に対して「たとえ教会堂に集う形でも、牧師の説教を一方的に聞いて帰る礼拝や劇場型礼拝では、そこに身体性は欠如している」という。コロナ禍が去り、対面の礼拝に戻ればよいという話ではなく、「対面」の質が改めて問われているのだ。

古代イスラエル民族が経験した「捕囚」にしても、じっと耐えたのちにまたもとの神殿祭儀を中心とした礼拝に戻ったということではないだろう。むしろ、捕囚期の希望は、来るべきメシアの待望となり、それは旧約時代のイスラエルの民が予想だにしなかった「家造りらの捨てた石」、イエス・キリストとその体なる教会が担うまったく新しい時代において成就する。

「ウィズコロナ」、そして「ポストコロナ」の教会は、「同じ場所に集まる」「対面」の質の刷新が求められている。また、今に至るまで多くの教会において、教勢伸長の目安は礼拝出席者数だが、そのカウントの仕方もふくめ、何をもって教勢の伸長とするか再考の時かもしれない。

川島堅二(東北学院大学教授)
かわしま・けんじ 1958年東京生まれ。東京神学大学、東京大学大学院、ドイツ・キール大学で神学、宗教学を学ぶ。博士(文学)、日本基督教団正教師。10年間の牧会生活を経て、恵泉女学園大学教授・学長・法人理事、農村伝道神学校教師などを歴任。

【宗教リテラシー向上委員会】 ウィズコロナ時代の教会(2) 川島堅二 2020年9月11日

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