【トナリビトの怪】(1)地球をつかむ神の手 波勢邦生 『アーギュメンツ#3』

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 「販売は手売りのみ」という驚くべき方法ながら、多士済々な執筆陣によって話題を集めた批評誌『アーギュメンツ』完結から3年。日本語キリスト教の可能性を論じた同誌掲載「トナリビトの怪」を無料公開する。

昨年11月、93歳で祖父が死んだ。三島由紀夫と同世代だった。日蓮宗の地元寺で総代まで務めた祖父と、17歳の夏にキリスト教徒になったぼくは仏壇に手を合わせるか否かという瑣末なことで口論したことがある。棺に眠り、花に包まれて、白く熱い、乾いた骨となった祖父を前に、ぼくは手向けとして十字を切ったのちに「父と、子と、聖霊の御名によって」3度、焼香した。

この10年間を振り返る。気がつけば、ぼくは神学とキリスト教学の修士号を得て、現在、キリスト教学の博士課程にいる。ひとつ不思議な話を思い出した。ぼくが神学修士のために渡米する前に、祖父が危篤になった。1週間ほど意識がなく、その間、祖父は夢をみた。その夢の中で、誰に会ったのかは分からないが、渡米するぼくに彼はいった。「話はつけた、おまえのことはおまえの神様にまかせることにした」。また晩年の祖父に、90を数えた人生について聞くと「夢だった」と笑って答えた。

ぼくは、キリスト教信仰を告白せずに死んだ祖父が天国でないどこかへ行ったのではないかと不安になった。聖書を厳密に解釈しても、強く確信めいたことを語ることができない。ただ祖父の死は、ぼくにとってキリスト教の根幹である「十字架の死と復活」の意味をより深化させる象徴形式として機能した。祖父の死は、ぼくの信仰的実存にとって、もっとも重要な要素の一つとなった。異教徒である祖父の死が、キリスト教徒であるぼくの信仰の本質的補完となり一部となったのだ。

ありうべからざる不思議な経験だった。だから、その意味について考えている。

地球をつかむ神の手

ぼくは14歳で誰に誘われるでもなく、聖書を読もうと思いたち教会に通うようになり、17歳の夏に信仰をもった。どうして、どのように信仰を持ったのかは未だ説明できない。ゆえに「キリスト教とは何か」という問いを20年追いかけてきた。

キリスト教とは何か (1) 。学問的には「キリスト教は多様な聖書的伝統」であり、教義的には、神のことばである聖書、聖書に示された三位一体の神、その神の御子キリストの二性一人格を信ずるものが、キリスト教である。しかし、ぼくのことばで言えば、それは地球をつかむ神の五指だ 。

ここで素描されようとしているものはなんだろう。それはキリスト教の伝達過程だ。地理的には複雑な歴史的経路をたどっているが、比喩として考えたい。地中海を掌として、そこから伸びた五つの教区、その歴史的総体を指としよう。いわゆる五大教区とは、ローマ、コンスタンティノープル、アンティオキア、エルサレム、アレクサンドリアを中心とした古代の巨大都市文明とその末裔たちの思想的伝統だ。キリスト教は、神の手として地球をつかんでいる。

人間の五指の形と役割が違うように、人類と世界は、各伝統の中で神と接触した。神の五指は六大陸文明史の動態において積極的にも消極的にも機能した。『教会史をみなおせば、環地中海地域の時代、環大西洋地域の時代、そして環太平洋地域の時代と区分されるであろう。そこには中心の移動があり、問題領域の拡大がある。しかし、環太平洋地域の時代は最後決定的』だという意見もある (2)。

神の掌を地中海沿岸弧とすれば、五指の頂点をつなぐ弧が太平洋のかたちとなる。2016年夏、コプト正教会が京都で正式に教会を開いたことで、五代教区の伝統が日本列島に到達した。しかし、いずれのキリスト教であれ日本において浸透しているとは言い難い。つまり日本の文化と言語は、神の掌と向き合うように、神の指の隙間にある。

祖父を含む多くの日本人が、この神の指の隙間で死んでいった。救われるために必要なニカイア・コンスタンティノポリス信経を告白することなく、そんなものを知る由もなく、彼らは死んでいった (3)。では、彼らはどうなったのだろう。主体的に神を知らなければ救われないのか。超越と対峙し自己を形成した主体でないことは罪を意味するのか。

大まかに言って、ぼくは神の指とその隙間を包摂するより大きな可能性を考えている。キリスト教が、古代地中海世界から煙り立つ普遍性の一つのかたちであるならば、それが零したものさえ包含するもの、すなわち環太平洋弧から伸びあがる可能性を考えたい。

現在もなお、多くの国々で人間のあるべき姿として喧伝される強い「主体」――すなわち西洋近代的自我――ではないもの、その地平を視野に入れたものである。それは「ありうべからざるもの」を包摂し、ぼくのように西洋近代的自我を重過ぎると感じている人々への福音となるだろう。

イエスは預言書を朗読して言った (4)。

主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。

福音書の記者ヨハネは、薄れゆくマタイ、マルコ、ルカ、共観福音書世代の記憶を補完するために新たに福音書を記した。今では存在さえ確認することのできない数多の福音書が綴られ歴史とならず波間に消えた。だから、ぼくも時代の要請に応えて、神のことばを書き記そう。地球を掴む神の指、その隙間からこぼれたものたちへ。神は彼らと共に立ち上がる。

夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。
けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。(5)

1) キリスト教学者・水垣渉の定式。日本基督教学会『日本の神学』54巻(2015)の収録講演、水垣渉『聖書的伝統としてのキリスト教―「キリスト教とは何か」の問いをめぐって―』
https://www.jstage.jst.go.jp/article/nihonnoshingaku/54/0/54_9/_pdf/-char/ja
2) 古屋安雄/大木英夫「環太平洋地域のプロテスタンティズム」『日本の神学』281頁。大木は、これを述べてのち『そこにはいっていくプロテスタンティズムは、明確な主体性の自覚と状況の展望をもつことが必要であると思う』とする。
3) 381年、第二全地公会議に採択された全キリスト教会が告白する世界信条。
4) ルカ福音書4章16節。イエスはイザヤ書61章1~2節を朗読した。
5) ヨハネ福音書21章4節『新改訳聖書 第二版』

波勢邦生
はせ・くにお
 1979年岡山県生まれ。キリスト新聞関西分室研究員/シナリオライター。

【トナリビトの怪】(1)地球をつかむ神の手 波勢邦生 『アーギュメンツ#3』

※初出:波勢邦生「トナリビトの怪」黒嵜想・仲山ひふみ編『アーギュメンツ#3』、渋家、2018、pp.24~37

 






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