【トナリビトの怪】(5)怪談の形式と啓示の形式 波勢邦生 『アーギュメンツ#3』

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 「販売は手売りのみ」という驚くべき方法ながら、多士済々な著者らによって話題を集めた批評誌『アーギュメンツ』完結から3年。日本語キリスト教の可能性を論じた同誌掲載「トナリビトの怪」を本紙にて全文公開する。(5/8回)

  1. 地球をつかむ神の手
  2. キリスト教と弱い主体
  3. 世界民俗学とキリスト教
  4. 怪談「ジーマー」
  5. 怪談の形式と啓示の形式
  6. ダニエル書における二つの謎
  7. 太平洋弧に立つイエス
  8. 遅れた解題とあとがき

怪談の形式と啓示の形式

「怪談の形式」とは、死者と生者が共鳴反響する「ある場所にまつわる声」である。言い換えれば、それは「死者と生者の交換可能性を担保する場所の記憶」である。ぼくはこれによって、生死の境界線という「主体」と「弱い主体」がグラデーションを示す地点より、神の指から零れ落ちたものを包摂する可能性を考えたい。近代化とグローバリズムに癒着したキリスト教が辿った「主体」の形式、その影に現れた「弱い主体」の両者がともに起動する地平を見出したいのだ。

冒頭でキリスト教は「超越・啓示・主体」という社会的形式において人格を形成すると指摘した。いいかえれば「神・聖書・私」という形式である。地球をつかむ神の五指の内実は、この形式で西洋近代的自我の起動、責任主体の構築を迫る。つまり、この形式は、主体から啓示へ、啓示から超越へ、すなわち神への遡行を要請する。それゆえ、人は自立した主体とならざるを得ない。どういうことか。

啓示とは、ある宗教における中心的な「神の声」の形態である。キリスト教における啓示は、通常二つある。一つは神のことばである聖書、もう一つは神が創造したこの被造物世界である。当然ながら両者は相補的に機能して、キリスト教徒の世界認識の仕方を規定する。啓示は、通常、出来事、つまり事象とそれを意味付けする声である。従って、書かれた言葉も記述された出来事も、一人の創造主に由来すると解釈することこそが、啓示を受け入れることにほかならない。

結果、原理上、ありとあらゆるものが啓示になり得る。無論、神学的概念としての啓示の範囲は規定され得るだろう。しかし、啓示が受容されるか否かは、主体の解釈にかかっている以上、少なくとも、あらゆるものが啓示的であると言わざるを得ない。

すなわち聖書というテクストだけではなく、森羅万象がテクストとして、読解可能なものとして立ち上がるのだ。だからこそ「創造主の似姿」として「解釈主体」という形式を得て自立した西洋近代的自我は、教義の記述を改変追記することができるのだ。

しかし、その啓示にも解釈不可能性は宿っている。たとえば、旧約聖書イザヤ書の冒頭一章の解釈は非常に難しい。聖書学的な一切を省いて言えば、イザヤ書の一章では、主語を特定できても、その指示内容を確定できない。現存する最古の写本を三つ並べ、それぞれの朗読の伝統を比較すると、指示代名詞がそれぞれ別の固有名詞を呼び出すのだ(18)。誰が話者なのか、確定できない。預言者本人か、神か、または異教徒なのか、主語が明確であっても「主体」は不明である。

「神のことば」は、一体誰のことばなのだろうか。解釈に誠実たらんとする者は沈黙せざるを得ない。眼前のヘブライ文字の連鎖が多声的であることしか確認できず、解釈を確定できない。

無論、主体的にテクストを区切り、学問的操作をほどこすなら、ある程度の可能性は絞れる。しかし、聖書自身に、既に確定できない「弱い主体」の声が混在しているのだ。

「啓示」と向き合うとき、西洋近代自我が直面するのは、強い中心性を持って対峙するものを構造化し、統一化する原理としての「神の声」ではない。むしろ、不明瞭に曖昧なままに立ち上がる、明確に主体になりえないものが繰り返す反響である。それはまさに怪談のように、波上宮の死者たちのように、読まれ、聞かれるたびに、その都度弱く立ち上がっていたものではないか。

近代化されたテクストに仄見える、多声性の残滓(19)。ここで、柳田国男「世界民俗学」の構想を受け継いだかのように読める民俗学者・小松和彦を召喚したい。小松は、人類学的な意味での「憑依」と、日本語の「つきもの」の「つき」の区別に注意を促している(20)。

「憑依」とは、いわゆる「精霊憑依」「憑霊」であり、英訳は、spirit-possessionである。すなわち「憑依」とは、個人に生起する人格変換、忘我を伴うトランス状態だと社会的・文化的に認知される現象である。一方、「つきもの」は個人に限定されず、社会集団、土地家屋にも適用されて世代を超えて継承される。

この「憑依」と「つきもの」の関係を、「啓示の形式」にひそむ多声性の残滓と「怪談の形式」の関係に読み替えることができないだろうか。

近代社会における「憑依」は、ある種、病的な個人に起きる問題として名指された(21)。それは人々を並列化し一律に「主体」とみなして、市民社会という場を構成するには、あまりに躍動的で危険なものだった。だから、文字通り、個人の問題として処理されたのだ。それゆえ、人類学においてspirit-possessionという、個人に帰着する所有の概念で以て説明された。であるからこそ、文書化可能な主体においては「場」の問題が背景化する。

しかし、小松が区別し指摘した、個人に限定されることのない「つきもの」は、むしろ「場」の問題を補って「憑依」を読むことで、両者が連続する可能性を示唆しているように思える。小松は、柳田國男の民俗学を人類学的見地から批判的に継承して、日本人の世界認識の仕方、価値認識の方向付け、またその精神の奥底に潜む情念の世界を究明した文化人類学者でもある(22)。

すなわち、世界宗教と日本の固有信仰を接続させた柳田のように、小松もまた、文化人類学と民俗学の架橋を目指した人物なのだ。この点においても、「憑依」と「つきもの」の接続を読み込むことは妥当だとぼくは考える。そして、土地家屋までも含む「つきもの」の継承可能性は、「死者と生者の交換可能性を担保する場所」としての怪談の形式に重なっている。

ゆえに、ぼくは西洋近代的自我という一個の人格をつくる「超越・啓示・主体」という社会的形式が、死者の声を反響させる多声的な「怪談の形式」と両立すると考える。つまり、啓示を怪談として読み換える場がここにあるのだ。

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※次回更新は6月12日(土)朝6時

18) 死海写本、アレッポ写本、レニングラード写本のイザヤ書1章のパラシャー(音読時の文節解釈)問題である。ユダヤ文献学者・手島勲矢の指摘に依拠する。
19) 近代化されたテクストとは、たとえばBiblia Hebraica Stuttgartensia(通称:BHS)、またはNovum Testamentum Graece: Nestle Alandである。これらは文献学的研究の集大成として更新され続ける校訂写本、すなわち新しい原典である。
20) 小松和彦『憑霊信仰論』(講談社学術文庫、1994)37-43頁。
21) 憑依関連については、桜井徳太郎『霊魂論の系譜』(講談社学術文庫、1989)、川村邦光編著『憑依の近代とポリティクス』(青弓社、2007)、伊藤慎吾編『妖怪・憑依・擬人化の文化史』(笠間書院、2016)を参照。
22) 小松前掲書、348-356頁。宗教人類学者・佐々木宏幹は、小松の仕事を同書解説において「人類学的に一歩踏み込んだ魅力的なもの」と評している。

波勢邦生

 はせ・くにお 1979年岡山生・キリスト新聞関西分室研究員/シナリオライター

【トナリビトの怪】(2)キリスト教と弱い主体 波勢邦生 『アーギュメンツ#3』

編集

黒嵜想 googleドキュメント

仲山ひふみ @sensualempire

アーギュメンツ#3  https://arguments-criticalities.com/

※初出:「トナリビトの怪」黒嵜想・仲山ひふみ共同編集『アーギュメンツ#3』、渋家、2018、pp.24~37

 






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