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【聖書の不思議あれこれ!】第2回 「神」ってナニよ?その2 <とりあえずの解決編>パダワン青木

みなさん、こんにちは! パダワン青木です。前回、「神」に対する謎を丸投げにして終わってしまったので、「これって●ィズニー主導のエピソード7か?」と思った方、あながち間違っていません(笑)。そもそもあのシリーズも、1976年の第1作の時に、それ以後のストーリーが決められていたなんてことは、あり得ません。結果、後付けでいろんな伏線を回収しようとして、なんだか尻すぼみになって、昨年冬に42年の歴史に幕を閉じてしまったんですね…。少し残念。でも全作品を劇場で鑑賞できたのだから、私はそれでも一定の納得を得ています。ありがとう、スター●ォーズ!

話を戻しましょう。

「神」についても同じようなものです。「これが究極の答だ!」みたいなものは、私たち人間には提示できません。それは天国に行ってから、神様に直接尋ねてください。ただ、私たちがこの被造世界に留まる中で言えるのは、「こうなんじゃないかなぁ…どう思う?」くらいなものです。ですから、今からお伝えする回答も、すべての矛盾や伏線をきれいに回収するものではありません。「帯に短し、タスキに長し」という部分がどうしても出てきてしまうことは、お許しください(と、逃れ道を作っておいて…)。では、いってみよう!

聖書の中に、「神」に関する記述が二通り、しかも相矛盾する形で記載されている、ということは、何も私が見つけた大発見ではありません。そのことは、今から100年以上前のドイツで、すでにそんなことを言い出した方がいました。名前は、ユリウス・ヴェルハウゼン。なかなか厳(いかめ)しい名前でしょ?彼は著書「イスラエル史序説」の中で、「神」に関する記述の違いから、聖書は大きく分けて4つの異なった文書が合本してできたのではないか?と考えたのです。そして、どの部分がどの文書から引用されているか、を考えていったのです。こういったことに興味を持たれた方は、ぜひ同志社大学の神学部の扉をたたいてください(宣伝かよ?)。

いずれにせよ、こういった研究の成果によって、各々の文書が想定する異なった「神」イメージが浮き彫りになってきました。ヴェルハウゼンさんの説によるなら、各文書が合本され、聖書として一体化されたときに、各々のネタ本となった文書記述者が想定する「神」もまた、平板に「神」または「主」として統一化されたのだ、と考えたのです。

ちょっと難しい話でしたか?ついてきてます?それとも「ああ、もういいや!」と思ってここで読むのをやめてしまいますか(もうちょっとだけお付き合いください)?

画像:写真AC

さて、そうなると、創世記の天地創造の記事でイメージされている「神」は、被造世界の外に居られる方であり、同時に、2章から3章に登場する「神」は、被造世界の中で生き動く、相対的に私たちよりも優れた存在、ということになります。しかもどちらも同じ存在、「神」です。これは、私たちの常識や理性ではとらえきれません。なぜなら、異なる2つの存在形態に整合性を持たせようとするなら、論理的に矛盾が生じてしまうからです。

たとえて言うなら、こんな「なぞなぞ」になるでしょう。

「山よりも大きく、ノミよりも小さなもの、な~んだ?」

これは、私たちの世界には「あり得ない」ことになります。しかし、そういった方が「存在する(あり得る)」と考えるのがキリスト信仰であり、聖書が語る神概念です。

つまり、私たちには計り知れないはるか彼方に居られるお方が「神」であり、その「神」は同時に、私たちの日常生活のこまごまとしたことまで顧みるほど身近に居られるお方、となるのです。

保守的に聖書を捉える方々の中から、ヴェルハウゼンさんのような考え方を「不信仰」と断罪してしまう方がおられます。「そんな間違った教えを広めるなんて!」という憤りがそこにはあるでしょう。でも、それは「悪しき存在は初めから終わりまで、とことん悪!」と決めつけるようなものです(ア●キン・スカイウォーカーも、はじめから悪の権化●ース・ベイダーだったわけではありません。ダークサイドに魅入られていく過程が存在します!)。

聖書の記述に関しても、私たちは勝手に人間が造り上げた二分法的思考パターン(保守派かリベラル派か)によって、自らの立つ陣営を確保しようとします。でも、それでは聖書の持つ本当の面白みがわかりません。

聖書の中に矛盾がないことがいいことなのでしょうか?科学的に立証されることだけが求められるのでしょうか?それとも、一見、矛盾や非科学的な記述が見受けられるけど、この書物になぜか心惹(ひ)かれる、魅力を感じる、そんなアバウトな感覚を大切にすることも必要なのではないのでしょうか?

画像:写真AC

いよいよ結論を申し上げる時になりました。

聖書が語る「神」ってナニなんでしょうか?

それは、あるときは被造世界の外側から人間世界に働きかけるお方です。また別のあるときには、被造世界に入り込み、質量を伴い、私たち人間よりも少し秀でた存在となり、私たちの環境、社会、生活、あらゆる出来事に関与されるお方として行動されます。この二つが同時に成立する世界に「神」は生きておられます。そこは、人間の頭で理解できる「論理的整合性」を超えた世界です。聖書が物語る世界は、そういった「私たちを超える」ものであると同時に、「私たちに内在する」ものなのです。

「じゃあ、どないしたらいいねん?」となりますね?「そんな小難しいこと言われても、ようわからんわ!」と。

ですから、聖書を読むときの大原則はこれです。

「書いてあること、そのまま読む」これにつきます。

 

さて、次回は、聖書が語る「罪」ってヤツについて考えてみましょう。

 

 

 

 

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