【聖書の不思議あれこれ!】第6回 「聖書」って何よ? その2 パダワン青木

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巷では「鬼滅の刃」が大ヒットですね!本サイトの中にも主人公の指南役である煉獄杏寿郎(れんごく・きょうじゅろう)について、熱心に解説くださった方もおられ、大変勉強になりました。私も号泣しましたよ!「上弦の参」の鬼、猗窩座(あかざ)が煉獄さんに「お前も鬼になれ!」と迫る場面。「これは「お前もダークサイドに来い!」と迫るパルちゃんと重なりました。「ああ、煉獄さんはダース・〇イダーになっちゃうのか?」とハラハラドキドキしていましたが、「鬼滅の刃」にはそういったスター・〇ォーズ的な展開は内容です。鬼殺隊たちはあくまでも「善」、鬼はどこまでいっても「悪」。この構図を決して揺るがせにしないところにヒットの要因があるのかもしれません。善悪がはっきりしている、ということですね。

さて、話がズレましたが、そうそう「煉獄(れんごく)」です。よく調べなくてもわかることですが、聖書の中に「煉獄」という言葉は出てきません。それを言うなら「原罪」も「三位一体」も…とヤバい方向に行きますから、これ以上例を挙げることはしませんが(笑)。

何が言いたいかと言うと、聖書を「読み」、何が書いてあるか「まとめ」、そして「教える」ということは、今でこそ、どこのキリスト教会での当たり前のように為されていますが、こんなことが許されるようになったのは、せいぜい500年余りでしかないということです。

ではそれまでは?

中世世界において、カトリック教会が世界を管理していた時代まで、これらの営みは、一部の特権階級の祭司たちのみが担えることでした。そもそも文字が読める民衆なんていませんでしたから。だからお偉い祭司様が「聖書にはこう書いてある!」とおっしゃれば、人びとは「へぇ、そうなんだ」と受け止めていたのです。
しかしそんな牧歌的な世界観が壊されるときがやってきます。ルターの宗教改革ですね。何とルターは聖書をドイツ語に訳してしまったんです!つまり、一般庶民の中でも読み書きができる人たちはある程度はいましたから、彼らは教会が教えてきたことが本当に聖書に書いてあるかどうか、チェックできるようになったんです。するとあれもこれもいろんなところで教会に都合の良い言い回しや解釈があることを見出し始めました。だから、プロテスタント諸教会は「聖書こそ唯一の権威だ!」と叫ぶようになったというわけです。

しかし時代を経(へ)るなかで、今度は聖書の中身に関して、あれこれと疑問を抱く人々が出てきました。「ホントにイエス様って水の上を歩いたの?だとしたらどうやって?」とか、「太陽は4日目にできたのに、どうして天地創造は一日目から『朝があり、夕があった』なんて言えるの?」てな感じです。こうして聖書を「聖なる書物」ではなく、他の本と同じように「テキスト」と捉え、それを分析する流れが生まれてきたのです。彼らはモダニスト、今風に言うならリベラリストと称されました。

しかし、「聖書を解体し、分析するなんて!」と怒り狂った人々もいました。イエス様の出来事は「聖なる足跡」であって、旧約聖書から新約聖書に至るまで、「一字一句、聖なる神の言葉であって、間違いはない!」と宣言し始めたのです。彼らは特にアメリカに多く存在し、自らのことを「根本主義者(ファンダメンタリスト)」と呼ぶようになっていきました。これが今、米国を騒がしている「福音派」と呼ばれる集団のルーツとなっています。

さて、ここからです。聖書を巡って激しい争いが20世紀初頭のアメリカに巻き起こりました。その争いは、そのまま「聖書」を巡る戦いでした。リベラリストは根本主義者を「時代錯誤な輩」と侮蔑的に非難しました。一方、根本主義者たちはリベラリスト、そして彼らが提唱する新神学(主にドイツから、そして米国でも浸透した)を「もはやキリスト教ではない」とか「不信仰」と応酬したのです。

この対立は、現在でも解決を見ていません。双方ともに相手とは距離を取り、様子見をしている状態です。だから大胆に言うなら、「キリスト教は聖書に基づいた宗教ではあるが、その経典を巡って分裂分派が生じている」という矛盾した状態となっているわけです。

これでは、「聖書ってナニ?」という質問に答えることはできません。卑近な例を挙げると、「あなたはどの教会の方ですか?ああ、福音派ですか。それなら『聖書は神の言葉』ですよね。」となる。しかし「ああ、同〇社大学の神学部出身ですか。それなら『聖書は本当におもしろいテキストですよね』と言わなければならなくなる。」

正直、こんなややこしいことをいちいちやっていては、せっかくキリスト教に興味を持ってくださった方から「身内同士で何やってんですか?」と言われてしまうでしょう。

そういったことに危機感を覚えたのでしょうか?1980年代後半から、この相反するベクトルを、統合しようという流れが生まれてきます。それは、聖書を字義通りに読んでも、また研究対象として分析しても、双方が納得できる形で帰結させられるのではないか?という観点から導き出された結論です。

知りたいですか?(ここでなおタメをつくるか?)

それは、聖書を「知恵の書」と捉えることです。つまり、聖書には多くの著者がいて、様々な社会階層の方が執筆していることになっている。もちろんその背後に神様がいて、それを統合していたと考える福音派系の視点も加味しながら。すると、自らの探究によってにせよ、神からの啓示によってにせよ、それが私たち人間にとって「よりよい生活、より健全な生き方」を指南する者であるという点では一致が得られるのではないか?ということです。

そのあたり、自己啓発的な発想で聖書を捉えようとする一派が80年代後半から生まれてきたことも、こういう考え方が浸透した要因とも言えるでしょう。もちろんこれがさらに極端になると「繁栄の神学」という悪名高きレッテルを貼られ、あらぬ嫌疑をかけられることにもなるのですが…。

いずれにせよ、現時点で、双方が納得できる表現で聖書を言い表すなら、こうなるでしょう。

「聖書とは、先人信仰者たちから、現代へ届けられた知恵の書である。そしてその背後に神を感じる者もいれば、それらを地域、民族、文化という域で留める者もいるが、それは二者択一で確定するような問題ではない。」いかがでしょうか?(笑)

 

 

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