
教皇フランシスコ、アブラハムの故郷でもあるイラクを初訪問
教皇フランシスコ(84)は5日、イラクを訪問した。6日はウルで諸宗教間の対話に参加する。ウルは、ユダヤ教とキリスト教、イスラム教で「信仰の父」とされるアブラハムの故郷だ。教皇のイラク訪問は歴代で初めて。
カトリック八王子教会(東京都八王子市)会員。日本同盟基督教団・西大寺キリスト教会(岡山市)で受洗。1965年、兵庫県生まれ。関西学院大学社会学部卒業。90年代、いのちのことば社で「いのちのことば」「百万人の福音」の編集責任者を務め、新教出版社を経て、雜賀編集工房として独立。
教皇フランシスコ(84)は5日、イラクを訪問した。6日はウルで諸宗教間の対話に参加する。ウルは、ユダヤ教とキリスト教、イスラム教で「信仰の父」とされるアブラハムの故郷だ。教皇のイラク訪問は歴代で初めて。
雑賀 信行
細川ガラシャの追悼ミサで、説教の終りに彼女の徳行と死について語ったので、忠興たちはいたく感動し、涙をこらえることができず、ただ泣くだけであった。そして忠興は言った。「これほど神聖で敬虔なものを見ようとは、これまで想像したこともなかった」と。
雑賀 信行
1602年、忠興が中津城から小倉城へと移る際、その城下に立派な教会も建てさせた費用も忠興が全額負担した。忠興がこのように宣教師たちを優遇するのを見て、忠興はすでにキリシタンであると、家来たちの間ですぐに囁(ささや)かれ始めた。
雑賀 信行
細川ガラシャは、夫の忠興と徳川家康の名誉のために生命を差し出し、キリシタンとして死んだ。そのため忠興は、こんなにも忠実な妻に感謝せざるをえず、自分にできる仕方で宣教師を支援している。そして、キリシタンの家臣に対して好意をもつことに決心した。
雑賀 信行
細川ガラシャはキリシタンとなり、その信仰姿勢は夫の忠興を感動させるようになった。今ではガラシャが夫を慰めるのみでなく、忠興のほうが彼女がキリシタンであることを非常に喜んで、ガラシャが祈りに専念できるよう祈禱室と祭壇の修復を彼自身が行った。
雑賀 信行
細川ガラシャが殉教とも思える死を選んだとき、その介錯を務めた細川家の家老である小笠原秀清。細川家に召し抱えられ、後に剃髪して「小斎」と号したが、この家臣もキリシタンだった。そして、秀清はガラシャを介錯した後、自ら切腹して果てている。
雑賀 信行
ガラシャの信仰姿勢は、幽閉されて会うことが叶(かな)わなかった宣教師さえ「感嘆すべきもの」「大いなる驚きであった」と書いたほどだ。おそらくガラシャの信仰は、苦しみにあえばあうほど、キリストの御跡に従おうと純化されていったのではないだろうか。
雑賀 信行
前回は、死の覚悟を決めてガラシャが一人きりで祈ったところまでを見たが、今回は自分の祈禱部屋から出てきたところから始めよう。 そし...
雑賀 信行
彼らは急遽ドナ・ガラシアにいっさいを知らせに行った。ドナ・ガラシアには何一つ異議はなく行動に移った。そして彼女は、常々よく整頓し飾っていた自分の祈禱室に入った。ただちに行灯に火を点すように命じ、死に支度をしながら跪(ひざまず)いて祈り始めた
雑賀 信行
父の光秀は、「もし、ひれ伏して私を拝むなら、これ(世のすべての国々とその栄華)を全部与えよう」という誘惑に負けたのではないだろうか。一方、娘のガラシャは、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」という言葉に従ったのだ(マタイ4:10)。
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