【終戦記念日】広島で被曝した荒木寛二牧師に聞く

 

終戦から73年。広島で被曝(ひばく)した荒木寛二(あらき・かんじ)さん(日本バプテスト教会連合・上福岡バプテスト教会牧師)は、その体験を近隣の子どもたちを中心に伝え続けている。

荒木寛二さん

1945年8月6日、3歳だった荒木さんは爆心地から約1・5キロのところにある自宅にいた。父は出兵。学徒動員で働く兄は、朝早くから家を後にしていた。一緒に住んでいた祖母は広島市内の親類宅を訪ねており、家にいたのは母親と荒木さん、6歳年上の姉、そして生まれたばかりの妹だった。

「おそらく私でクリスチャンは4代目くらいではないでしょうか。ですから、戦時中から両親はクリスチャンでした」

朝から太陽がジリジリと照りつける中、荒木さんはパンツ1枚で家の中で遊んでいた。突然、ピカっという光と、ドーンという大きな音。

気がつくと、母は瓦礫(がれき)の上に座っていたという。命があることにまずは神様に感謝をささげた。その後、我に返り、子どもたちはどうなったのかとあたりを見回すと、「苦しいよ」と叫ぶ長女の姿があった。すぐに助け上げ、そのあと赤ん坊の次女、そして荒木さんは自分で起き上がってきたが、全身にガラスの破片が刺さっていたという。

広島の町は完全に破壊されていたので、少し離れた病院に行こうと歩いていると、背中が真っ赤になった男性が奇声を上げながら走っていく。「助けてくれ、助けてくれ」と叫ぶ声。道路の脇には無数の遺体。

「『何もしてあげられなかった』と母は言っていました」

荒木さんは九死に一生を得たが、戦後、兄は「原爆病」で召天。1年後には乳児だった妹も亡くなった。

「それでも両親の口からは、神様を恨んだり疑ったりする言葉を聞いたことはありませんでした。ただ、子どもを2人も亡くしたのですから、もしかしたら口にはしなくても、心のどこかで『神様、どうしてですか』と思ったかもしれない。でも、当時はそんな余裕はなかったのです。1日1日、生きることが必死。広島では15万人の人が亡くなったのです。子どもを失う、夫を失うなんてことは、広島だけでなく、当時の日本ではそれが日常でした。私の伯父は復員して広島に帰ってきたのですが、家族は全員、亡くなっていました。そんなことはあちこちにあった。何も珍しいことではなかったのです」

その頃の記憶は「幸か不幸か」ほとんどなく、当時の話は母から聞かされたことが多いという。しかし、今も荒木さんの体に残っている傷は、その日の出来事をまざまざと物語っている。

戦後、父親も復員して、しばらくは山口県にある親戚の家に身を寄せたが、数カ月で広島に戻り、比較的被害の少なかった親類の家を手入れして住み始めた。そこで両親は家庭集会を始めたという。

荒木さんは19歳で受洗。1971年に献身し、翌年、埼玉県ふじみ野市に教会を開拓。以来、47年間、同地で牧師として仕えている。

荒木さんはインタビューの最後にこのように話した。

「今の時代は、信教の自由も保障されています。自由に伝道もできる時代。その一方で、あまり熱心に伝道してしまうと、日本人には受け入れられないという面も持っています。難しい時代ではあります。

私たちは平和をあきらめてはいけません。73年間続いた平和を今後も持ち続け、世界中から戦争がなくなるよう祈っていかなければなりません。

私たちは、日常の中に政治があり、政治は日常にあることを忘れてはいけません。個人として、それらを考えることは必要だと思います。大いに政治に興味を持って、日ごろから考えていきたいです。声を上げる時に声を上げなければ、何も変わりません。クリスチャン青年の中から、平和を強く主張する政治家が起こされることを願っています。

私は年々、平和の思いが強くなっていると感じます。どうか平和な日本であり続けてほしいと祈っています」

Share

Related Posts

おすすめ