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ノートルダム大聖堂の間近に住む日本人ジャーナリストから 栗本一紀

投稿日:2019年4月23日 更新日: -

 

4月21日の日曜日は、キリストの復活を祝うイースターだった。しかし、毎年行われるパリのノートルダム大聖堂でのミサは行われなかった。代わりに、近隣の教会において復活祭のミサは執り行われた。

(写真:栗本一紀)

復活祭翌日の月曜日は、ノートルダム大聖堂で大規模な火災が発生してからちょうど1週間目だ。現地時間の4月15日午後6時過ぎに起こった火事で、ノートルダム大聖堂は約90メートルの尖塔や屋根の3分の2を焼失した。

幸いにも大きな人的被害はなかったとはいえ、それは一般のパリ市民のみならず、多くの世界中のクリスチャンにとってもたいへん衝撃的な出来事だった。ノートルダム大聖堂は、「フランスのカトリック教会を代表する重要な教会堂」という以上に、イエス・キリストの死と復活、すなわち〈永遠に変わらないもの〉の象徴のような存在だったからだ。

私は、ノートルダム大聖堂まで約300メートルのアパルトマンに住んでいる。建物の玄関を出ると、そこにはノートルダム大聖堂の荘厳な後ろ姿が見える。ただその日、その時間帯に、ちょうど郊外に車で出かけていて、夕方、自宅に戻ってくる途中だった。パリ市内に入り、アパルトマンの近くのモンジュ広場のあたりまで来たところで警察の非常線に行き当たるまでは、火災のことは知らなかった。

それで別の道に迂回してみたものの、自宅のアパルトマン前につながるアベニューは完全に封鎖されていることに気づいた。消防車や緊急車両を通すためだった。至るところで交通規制が敷かれていて、道は大渋滞を起こしていた。車両進入禁止の先の通りはもう歩行者天国状態で、どこも人だかりの山ができている。

しようがなく私は、自宅から少し離れたポリスラインの手前に車を置いて、徒歩で急いでセーヌ河岸まで駆けつけてみた。するとそこには、もうもうと炎と煙を上げるノートルダム大聖堂の(いつも見慣れていたはずの)後ろ姿があった。

最初は自分の目を疑った。聖週間に入ったばかりだったこともあり、一瞬、これはイエス・キリストの受難を体現させられているのかとさえ戸惑った。希望の源であるイエス・キリストの死と復活の神秘の象徴=〈永遠の神のいのち〉であるノートルダム大聖堂が、いま目の前で焼け落ちようとしている! キリストの信仰者にとって、ノートルダム大聖堂はゴシック建築の原点とも言える建物(ゴシック様式で最初に建設された記念碑的な建物)というだけでなく、イエス・キリストの身体そのものなのだ。

今回の火災で崩落した大聖堂の尖塔は、左右の翼廊と、縦に伸びる身廊の交差する部分(トランセプト)の上に立っていたもので、まさにここがキリスト体内の「心臓」であり、ゆえにここに「祭壇」も設置されている。その場所でキリスト者は祈り、祝福され、神と一心同体となる、特別な空間だ。その大切なものが眼前でがらがらと崩れ落ちていくさまをただ見ていることしかできなかった人々の心の内がどれだけの悲痛に満たされたか、想像にかたくない。

その日は夜中過ぎまでノートルダム大聖堂周辺で大勢の人の往来が止まらなかった。一晩中、オレンジ色の炎に仄(ほの)かに照らし出されるノートルダムの黒影を前に、ロザリオの祈り、「アヴェ・マリア」を唄っている悲しい市民の姿があった。

(写真:栗本一紀)

翌朝、ノートルダム大聖堂は鎮火し、建物が全焼するという最悪の事態は回避された。バラ窓などのステンドグラスが被害に遭うなど、多大な損失を被ったが、巨大絵画を含む多数の文化財は焼失を免(まぬか)れた。何よりも「祭壇」と「十字架」は無傷で残ったのだ。

聖週間のイエス・キリスト受難は、新約聖書の中でも最も重要な事実で、その後の復活・再生の奇蹟へとつながる希望を約束する救いの物語でもある。ノートルダム大聖堂の建物内部の「十字架」が焼け落ちなかったことは、イエス・キリストの磔刑(たっけい)のあとの復活を連想させる。もちろん、それは偶然と言うこともできるだろう。ネット上では、それは神のみわざなどではなく、「金の融点が1064度であるのに対して、木が燃えるときは600度程度だから」という科学的論拠を示す者も現れた。

だがイエス・キリストの信仰者にとって、それは神のご慈悲のようなものだ。私たち全員の祈りが天に通じたと言ってもいい。キリストの受難を意味する大聖堂の火事、そしてそのあとに焼け残った「祭壇」と「十字架」は私たちの希望の光となる。ノートルダム大聖堂の歴史・文化的価値や芸術・建築的価値に疑問を挟む余地はないけれど、大聖堂の存在そのものを支える信仰がなければ、それはただの伽藍(がらん)でしかない。その意味において、多くのキリスト者の信仰はこうして守られたのだ。

(写真:栗本一紀)

翌日から、ノートルダム大聖堂を一望できるトゥールネル橋の上には世界各国からの報道陣と中継車が陣取って、生放送を出し続けた。800年の歴史を持ち、1804年にナポレオンが皇帝となる戴冠式が執り行われたノートルダム大聖堂が、一夜にしてその大部分を失った。故ミッテラン大統領の葬儀や2015年11月のテロ事件の犠牲者の追悼式が行われたのもこの大聖堂だった。それはしかし、同時多発テロによるニューヨークの世界貿易センタービル倒壊の時のような憎悪の感情を、人々の間に一切生まなかった。人間の犠牲者が出なかったこともあるが、政府が早々に、出火の原因は放火などではなく偶発的な事故によるものだと発表したせいだろう。約1カ月前の今年3月には、映画「ダ・ヴィンチ・コード」の舞台にもなった、パリの第2の大きさを持つサン=シュルピス教会が放火された例があったのにもかかわらず……。

いずれにせよ、年間1300万人の観光客が訪ねるノートルダム大聖堂の大火事は、確かに世界的なニュースとなった。しかし、この大聖堂には何よりも象徴としての価値があった。「ノートルダムはパリの象徴であり、平和と調和の象徴だ。そして、パリという街の特別な場所を占めている」と言ったのは、中世史を専門とするフランス人歴史学者クロード・ゴバール氏だ。

パリは紀元前3世紀、その中心部を流れるセーヌ川の中州、シテ島を中心に歴史が始まった。ノートルダム大聖堂はそこで1163年に着工され、180年かけて完成した。2000年も同じ場所で発展を続けてきたヨーロッパの町はほとんどない。フランスの首都から他の都市への距離はすべてノートルダムを基点に測定されている。サンティアゴ・デ・コンポステーラ(エルサレムやバチカンと並ぶキリスト教三大巡礼地)の巡礼路の一つもここを出発点としている。フランスというキリスト教国のルーツがそこにはある。多くのフランス人の精神的支柱がここにはあった。そして、彼らの期待に呼応するかのように、ノートルダム=「聖母マリア」は常にそこにいた。

無残にも崩壊した屍(しかばね)のようなノートルダム大聖堂を見て、教皇フランシスコは言った。「深刻なダメージを受けた悲しみが希望に変わるまで待たねばならないが、我々はフランスの人々と共にある」と。これからのノートルダム大聖堂の復旧と再建の長い過程において、今こそ世界中の国家と国民が結束し、連帯できれば、それこそ真の神のみわざとなるかもしれない。

栗本一紀(くりもと・かずのり)パリ在住、映像作家。1961年、大阪生まれ。80年代に南米アルゼンチンのカトリック教会で受洗。同時期、南米スラム街のドキュメンタリーなどを撮り始める。99年よりフランスを拠点にアフリカ・中東地域の取材。2011年の東日本大震災後は、原発問題などを扱ったドキュメンタリー映画を製作。 現在、事故から33年が経つチェルノブイリ原発をテーマにした映画を制作中。著書に『ジャーナリスト後藤健二──命のメッセージ』(2016年、法政大学出版局)がある。

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