飯謙氏、「聖書協会共同訳」について語る(3)

 

聖書事業懇談会が4月10日、大阪クリスチャンセンター(大阪市中央区)のOCCホールで開かれた。そこで、12月刊行予定の「聖書協会共同訳」についての講演を、翻訳者・編集委員である飯謙(いい・けん)氏(神戸女学院大学総合文化学科教授)が行った。その内容を連載でお届けする。

飯謙氏=2017年7月、広島での新翻訳聖書セミナーで

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このように1960年代から70年代にかけて、「意訳」の方針による聖書が相次いで出版されました。時代の隔たりによる分かりにくさという従来の欠落点を補って、一定の役割を果たしたと申せます。

とはいえ、決して決定版の翻訳とは言えません。そこで、学術的な裏づけもある翻訳が望まれました。また、60年代の第2バチカン公会議以降の聖書翻訳の奨励、あるいはエキュメニズムの進展もあって、その機運は高まりました。これが78年出版の日本聖書協会「共同訳聖書」(新翻訳と区別するため、このように表記します)の背景です。

「共同訳聖書」では、いわゆる「動的等価性」(dynamic equivalence)の理論が採用されました。これは、米国の言語学者で牧師でもあったユージン・アルバート・ナイダ(1914-2011)が提唱した方式です。彼は、聖書翻訳にあたって、原文との間に認められる同質性、あるいは機能的な等価性を重視するよう主張しました。

この翻訳は現在、講談社学術文庫で故・堀田雄康(ほった・ゆうこう)先生(フランシスコ会司祭)の注釈付きで読むことができます。この書の「序言」を読むと、教会での使用を第一の目的とせず、「従来の聖書」(ということは「口語訳」)に代わるものではないと明記されているので、一つのトライアル、研究史の1ページとして、かつカトリックとプロテスタントの共同事業として有意義な翻訳であったと位置づけられます。

ただ、「イエスス」「パウロス」「ルカス」といった人名や、地名の原音表記の馴染みにくさ、また「意訳」ということで翻訳者の主観が入りすぎる点など不評を買い、読み続けられる書とはなりませんでした。私が教会の現場に出たのは1980年代初頭のことですが、説教では必ず「共同訳聖書」に言及するよう心がけたものでした。けれども、たいていは批判的に引用していました。

先ほど例に挙げた「山上の説教」冒頭は、「共同訳聖書」では「ただ神により頼む人々は、幸いだ」と訳されています。「心の貧しい人」をこのようにイメージする人は当該箇所の翻訳者以外にもいたかもしれませんが、意味の広がりを狭める少々貧しい訳と感じ、妥当な訳文とは思えませんでした。それは意訳全般にもあてはまることです。

この試みが、しかしながら「新共同訳」を誘引することとなりました。「新共同訳」はナイダ理論と一線を画し、直訳に変更しました。

とはいえ、「共同訳」に携わった人もいたからでしょうか、このシフトはスムーズにいかなかったようです。「新共同訳」で重要な役割を担われた和田幹男先生(80、カトリック大司教区司祭)によれば、この「共同訳」から「新共同訳」に移行するプロセスで、動的等価性や「大衆が分かる日本語」にこだわる人がいたこと、あるいは、それに対する受け止めが翻訳者間で異なっていたこと、これらのため、かなりの混乱を招いたと述べておられます。

たとえば、ヨブ記1章21節のヨブによる有名な告白を見てみましょう。

わたしは裸で母の胎を出た。
裸でそこに帰ろう。
主は与え、主は奪う。
主の御名はほめたたえられよ。(新共同訳)

これは、草稿段階では次のように訳されていたということです。

何一つ持たずに生まれたのだ。
何一つ持たずに死のう。
主はお与えになり、またお取りになる。
主の御名をほめたたえよう。

和田氏は、これが「動的等価訳についてよく考えられた訳だ」と評価される一方で、次のような批判も加えます。確かに「裸で」は「何一つ持たない」、「母の胎を出る」は「生まれる」ことであり、「原文と、翻訳される言語との間に存する同質性」に配慮した訳だと言えるかもしれない。しかし、狭い文脈では妥当でも、聖書全体の広がりを考えると、問題を抱える、と。

たとえば、「裸」は、「裸であったが、恥ずかしがりはしなかった」状態にあるアダムとエバの無垢(むく)な様(さま)を想起させ(創世記2:25)、「母の胎」を軸とすると、イザヤ(49:1)やエレミヤ(1:5)への連想が生まれる。同質性に比重を置いた訳を施すことで、これらとのつながりが断ち切られることになる(『理想』1984年12月号、184頁)。つまり、方針に基づいた翻訳であり、誤りではないが、聖書全体を俯瞰できる訳とはならないとおっしゃるのです。

私が考えるところ、この失敗は、動的等価法という翻訳理論を機械的に適用したことに起因します。「翻訳は、すべてのテクストを同じ理論や方法によってなさねばならない」と考えてしまったことです。もちろん、これは長年にわたって継承されてきた一つの理解です。

一方、テクストにはそれぞれの意図が込められています。どのテクストもが、創造伝承や預言者との連関性を意識しているわけではありません。

民族最初期の歴史物語には、意識すべき前提などはなかったかもしれません。だから、分かりやすく「機能的な等価性」を与えた訳が読者に親切かなと思えます。

しかし、後代の文書となるほど、前提が増えていきます。当然のことながら、訳者はテクストの特性を考え、適切な状況判断を求められる。「理論のロボットとなってはならない」ということです。

言われたとおりの方針で動的等価訳で翻訳を行えば非難はされないかもしれませんが、ふさわしい作業とはなりません。このあたりに、小さな文脈での整合性を重視する意訳、もしくは動的等価訳の留意点が潜んでいるということではないでしょうか。(続く

 






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