コラム

神さまが共におられる神秘(24)稲川圭三

投稿日:2018年11月4日 更新日:

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イエスさまの愛で愛する

2012年11月4日 年間第31主日
(典礼歴B年に合わせ6年前の説教の再録)
あなたの神である主を愛しなさい。隣人を愛しなさい
マルコ12:28b-34

ユダヤ教の律法という掟(おきて)はたくさんの数がありました。その中で何がいちばん大切かということは、しばしば議論にもなっていたようです。それで一人の律法学者がイエスさまに、「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」と尋ねました(マルコ12:28)。するとイエスさまは、「神を愛し、人を愛することが第一の掟だ」と言われます。

ところで、「掟」という言葉ですが、その前提になっているのは、何らかの結束、つながり、絆(きずな)、つまり「我々」があってはじめて「掟」があると思いました。

たとえば忍者の集団があって、「これが『我々』の鉄の掟だ」という掟を破ったら、「掟破り」として、そのグループ、「我々」から追放されてしまう、関係が断たれてしまうことになりますね。掟とはそのようなものです。

今日、イエスさまが言われた「第一の掟」(29節)ということを考えるとき、まず「神さまと私たち」という深いつながりが前提になっています。もしそのことがないなら、掟ということ自体が意味のないものになってしまいます。

神さまと私たちとの深い間柄があって、はじめて掟というものは意味をなします。掟を守らないと、その深い間柄から離れてしまうので「守るように」と言われているということです。

「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』」(29~30節)

こうイエスさまは言われます。「イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である」は、神さまと私たちの深い絆を思い起こさせる言葉です。

さて、掟の中身ですが、「尽くし」と訳されている言葉は、もともと「全部で」という意味の言葉です。だから、「心の全部、精神の全部、思いの全部、力の全部で神である主を愛しなさい」と言われているのです。

なぜこう言われるのか、お分かりですか。それは、神さまが先に私たちを、心の全部、精神の全部、思いの全部、力の全部で愛しておられるからです。だから、愛しなさい。愛するとき、その愛が実って、私たちがそのいのちを受け継ぐからです。

愛は一方向では実らず、双方向で愛し合うときに実るものだから、私たちがそれを心と魂と思いと力の全部で愛し返すときに実るということだと思います。だから、掟なんです。

「隣人を自分のように愛しなさい」(31節)というのは、神さまは私たちのことをご自分だと思っておられるということです。神さまにとって私たちは「ご自分」。心の全部、精神の全部、思いの全部、力の全部なのです。だから、「隣人を自分のように愛しなさい」と言われるんです。

でも、この掟を守ること、つまり「神を愛し、人を愛する」ということが、私たち人間はできないのですね。だから、救い主イエス・キリストが来てくださったのです。「神を愛し、人を愛する」という一致に私たちを結ぶために。

イエスさまは後に、この二つの掟をただ一つの新しい掟として私たちにお与えになります。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13・34)。これが、イエスさまがお与えになったただ一つの新しい掟です。

私はこの言葉を、「イエスさまが愛したみたいに、それを真似して愛する」という意味だと思っていました。でも、違う。「私があなたがたを愛したように」の「ように」と訳されている言葉は、「根拠」とか「理由」を表す意味で使われている言葉でした。つまり言い換えると、「私があなたがたを愛した愛で、あなたがたも互いに愛し合いなさい」ということです。

私は取るに足りない者ですが、イエスさまが自分と共にいてくださると信じています。そして、私の中でイエスさまが一人ひとりに向かって、「神さまがあなたと共におられる」という真実を見てくださると思っています。

だから、私たちもそのことを受け取ったなら、自分の中にイエスさまが立ち、自分のまわりの人に「神さまがあなたと共におられる」と見るようになる。自分の力ではなく、イエスさまが愛してくださったその愛で見るようになる。「自分の取るに足りなさ」に立つのではなく、「共にいてくださるイエスさまの真実」に立って見る。

そのイエスさまの働きを妨げずに、お互いにそう見るように招かれていますので、お互いに愛し合い、イエスさまの愛で愛する集い、そういう関係、そういう教会、そういう私たちになっていくよう、心を込めてお祈りをしたいと思います。

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稲川 圭三

稲川 圭三

稲川圭三(いながわ・けいぞう) 1959年、東京都江東区生まれ。千葉県習志野市で9年間、公立小学校の教員をする。97年、カトリック司祭に叙階。西千葉教会助任、青梅・あきる野教会主任兼任、八王子教会主任を経て、現在、麻布教会主任司祭。著書に『神さまからの贈りもの』『神様のみこころ』『365日全部が神さまの日』『イエスさまといつもいっしょ』『神父さまおしえて』(サンパウロ)『神さまが共にいてくださる神秘』『神さまのまなざしを生きる』『ただひとつの中心は神さま』(雑賀編集工房)。

2018年11月17日 患難との戦い(フィリピの信徒への手紙 1:12-20)
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兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。

つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、

主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです。

キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。

一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、

他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。

だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。

というのは、あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の助けとによって、このことがわたしの救いになると知っているからです。

そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。

(フィリピの信徒への手紙 1:12-20)

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