神さまが共におられる神秘(4)稲川圭三

信頼のうちに眠るイエスさまと共に

2015年6月21日 年間第12主日
(第11主日ですが、来週は洗礼者聖ヨハネの誕生の祭日のため繰り上げました)
「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」
マルコ4:35~41

説 教

今日は、嵐の湖に漕ぎ出した舟の中での出来事です。

突然、「激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。しかし、イエスは艫(とも)の方で枕をして眠っておられた」とあります(マルコ4:37~38)。

艫というのは、舟の後ろのほうのことです。その時、弟子たちは何をしていたのでしょうか。どんどん水が入ってきて沈みそうになっていたので、たぶんいろいろなものを使って水をかき出していたのではないでしょうか。

ところが、その中でイエスさまは眠っておられたのです。それで弟子たちは言いました。「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」(38節)

この「おぼれる」と訳されている言葉はギリシャ語では「アポリューミ」という言葉で、「亡びる」「見失う」とも訳されます。もともとは、「本来あるべきところから離れて、力を発揮できずに弱ってしまう」という意味です。

弟子たちにとって「自分たちがあるべきところ」とは、この世の「いのち」の状態でした。死の危険が迫ってきたから、「自分たちは亡びる」と思ったのです。

でもイエスさまは、もっと違うところに繋(つな)がっておられました。それは「本来あるべきところ」です。天地万物をお創りになられたお方、「永遠」というお方に繋がって、そこで眠っておられたのです。

時々、ちっちゃい赤ちゃんがお母さんの背中におぶわれて、お母さんの背中にピターッとくっついて眠っているのを見ることがあります。「この赤ちゃん、いったい自分のいのちをどこに預けているのだろう」というように。

私たちは寝ていても、どこかしら心配しているような顔をしているかもしれません。いろいろな心配事がありますから。でも、赤ちゃんを見る時、「この子は、このいのちをいったいどこに委ねているのだろう」と不思議に思うくらいです。

イエスさまは、天地万物の創造主である神さまに信頼して寝ていました。それだけではなくて、天地を創った神さまが皆さん一人ひとりの中にいて、いのちを支えてくださっているという信頼に繋がって寝ていたのです。

ところが、弟子たちにはそれが分からなかったので、「先生、私たちが亡んでもかまわないのですか」と言いました。

そこで、「イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、『黙れ。静まれ』と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪(なぎ)になった」(39節)。

そうして、イエスさまは言われます。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」(40節)

「信じる」とは、もともとの言葉では「信仰を持つ」という意味の表現が使われています。つまり、「まだ信仰を持たないのか」ということです。

イエスさまは、信仰を持っていた方です。天地の創造主、神さまが自分の中にいて、一緒に生きてくださっていることをしっかり持って、そのお方と一緒に生きていました。

ところで、イエスさまのご生涯の中で、この後、比喩的な意味ですが、もう一回、深い眠りに陥ってしまう出来事があります。それは十字架の出来事です。イエスさまは、父である神さまへの信頼の中に深く安らいで、そのまま十字架にかかってしまわれます。イエスさまはこの時、まるで眠ったままのようです。

しかし、弟子たちは逃げてしまいました。もしイエスさまの十字架がこの舟の中で起こっていたとしたら、「私たちが亡んでもいいのですか」と弟子たちは怒ったと思います。舟からは逃げられないから。

イエスさまは、「天の御父が共にいてくださる。そして、みんなにも共にいてくださる」という信頼の中で眠っておられたのでしょう。存在の最も奥深いところで安心して、委ねておられたのです。そして、十字架上で息を引き取られました。

イエスさまがおられたのは、この世の「いのち」だけがすべてというところではなくて、「永遠」という神さまが共にいてくださるところ。そここそ、すべての人がいるべき場所です。イエスさまはその場所で眠っておられました。

今日の嵐の湖の上の出来事だと、イエスさまは「黙れ。静まれ」と言われるのですが、十字架のイエスさまは何もおっしゃいませんでした。しかし、復活したイエスさまの「復活のいのち」そのものが、人間を脅かす「死」に向かって「黙れ。静まれ」と言って黙らせてしまいました。「黙れ。人間のいのちは、死によって亡ぼされるようなものではない」という真実から、イエスさまは私たちに教えてくださいます。

イエスさまが死に、復活し、弟子たちに聖霊が注がれた時、弟子たち一人ひとりの中にイエスさまが立ち上がりました。この時、弟子たちは信仰を「持つ」に至りました。弟子たちが信仰を持つようになったのは、イエスさまが生きている間ではなかったのです。

死を超える「いのち」、神さまに信頼するという信仰そのものであるイエスさまを自分の中に持つことが、「信仰を持つ」ということです。さあ、ここからが私たちの物語です。

イエスさまが私たち一人ひとりと共にいてくださいます。それが、私たちの「今日の日の今という時」です。そのイエスさまを私たちはどのように持つのでしょうか。持ち続けるのでしょうか。手放してしまうのでしょうか。忘れるのでしょうか。枯らしてしまうのでしょうか。

今日の福音の最初に、「群衆を解散させてから舟を漕ぎ出した」(36節参照)とありますが、それまで群衆はイエスさまの話をずっと聴いていたのです。湖の岸辺に集まった群衆にイエスさまは舟の上から教えていたのです。

どんなことを教えておられたかというと、「種を蒔く人」のたとえでした(13~20節)。

「蒔かれた種」というのは、イエスさまの「いのち」そのものです。私たち一人ひとりの中にイエスさまの「いのち」が蒔かれているのです。

そのイエスさまを鳥に食べさせていいのか。何か困難があると、すぐにイエスさまの「いのち」から腰が引けてしまっていいのか。いろいろなこの世の思い煩い、富の誘惑や欲望で覆いふさいで、窒息させてしまっていいのか。

そうではなく、いつもイエスさまの「いのち」を受け取り続けるならば、実を結んで、30倍、60倍、100倍になる。これがイエスさまの教えておられることです。

どうして100倍になるのかといったら、「神さまが共にいてくださる」という真実を自分が受け取ったならば、人にもそれを告げるからです。人にも祈るからです。「神さまがあなたと共におられる」と人に告げて、出会わせる。だから、30倍、60倍、100倍になるのです。

さあ、一緒にいてくださるイエスさまと一緒に生きる1週間になりますように。出会う人一人ひとりに、「神さまがあなたと共におられます」と祈って生きる1週間になりますように。いただいたイエスさまの出会いを大切に、一緒にその出会いを「持って」生きる者になりますように、ご一緒に祈りたいと思います。

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