コラム

神さまが共におられる神秘(6)稲川圭三

投稿日:2018年7月1日 更新日:

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恐れることはない。ただ信じなさい。

2015年6月28日 年間第13主日
(典礼歴B年に合わせ3年前の説教の再録)
「わたしの服に触れたのはだれか」
マルコ5章21~43節

入祭のあいさつ

今日は年間第13主日を迎えています。

今日のミサの福音の中で、12年間も出血が止まらなかった女性に向かってイエスさまは、「あなたの信仰があなたを救った」と言われました(マルコ5:34)。また、愛する12歳の娘の死の知らせを受け取った父親に、「恐れることはない。ただ信じなさい」と言われました(36節)。

イエスさまが私たちにお教えになる信仰とは、私たちが究極の居場所につながることです。私たちの「救い」が来るところ、私たちの「いのち」が来るところ、「永遠」というお方に触れることです。そのお方に信頼をするようにと、今日も私たちは呼びかけを受けています。

信頼すべき「いのち」の源であるお方が、今日すでに私たち一人ひとりと共にいてくださいます。そのことを受け取り、その真実に触れ、その真実にとどまって歩む者になりますように、ご一緒にお祈りをしたいと思います。

説 教

今日の福音の中で、イエスさまは病気の人を癒され、また死んだ者を生き返らせました。でも、イエスさまは、病気の人を癒すことよりも、また死者を生き返らせることよりも、もっと深く私たちに望んでおられることがあります。それは、私たちがたとえ病気であっても、死を超える「いのち」である方と今日つながっていることです。また、死を超えて「永遠」といういのちの神さまと私たちがつながっていることをイエスさまはお望みです。

会堂長の家から人々が来て、「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう」(35節)と言った時、イエスさまはその話をそばで聞いていて、会堂長に言ったのです。「恐れることはない。ただ信じなさい」

何をおっしゃっているのでしょうか。「自分の娘が亡くなったと聞いた者に、何を信じなさいと言われるのだろうか」と思ってしまう思いが、私たちにあるかもしれません。なぜなら私たちの中には、「死んでしまったら、もうおしまい」、「死んでしまったなら、信じるも何もない」という思いがあるかもしれないからです。でも、イエスさまはおっしゃいます。「子供は死んだのではない。眠っているのだ」(39節)

イエスさまは私たち一人ひとりを見る時、「永遠のいのち」を見る眼差しで見てくださいます。「死んだらそれで終わってしまうもの」としてご覧になるのではありません。私たちの中には「永遠のいのち」の神さまの似姿が刻まれています。

人間は決して死んで終わってしまうような「いのち」ではありません。「あなたは神の子」、「あなたは神の似姿」、「神さまの『永遠のいのち』があなたの中に現れている」、そういう眼差しで見てくださったのです。

病気があっても、思いどおりにいかないことがあっても、「永遠のいのち」の神さまが共にいてくださるという神の真実を一人ひとりの中に見てくださったのです。

ここにいる私たちの中には、病気を持っている方があるでしょう。また、幼い子どもさんを亡くされた方があると思います。「どうしてイエスさまは病気を治してくれないのですか」。「どうして私の娘を、息子を助けてくれなかったのですか」。「不公平じゃないですか」。そんな思いが心のどこかにあるかもしれません。

しかしイエスさまは、もっと大きなもの、決して滅びることのないものを私たちにお与えになりたいのです。それは、「永遠のいのち」の神さまが今日すでに私たちと一緒にいてくださるという真実です。亡くなられた方の中に「永遠のいのち」の神さまが共にいてくださることを見出してくださる眼差しです。

イエスさまの眼差しの焦点は、私たちの病気に当てられているのではありません。病気があっても、そのもっと奥深くに「永遠のいのち」の神さまの似姿が刻まれていることを見てくださるお方です。それがイエスさまというお方です。

亡くなられた方々の「死」に焦点が当てられるのでなく、その奥に「永遠のいのち」があることを見出してくださるお方です。そのお方の眼差しで見ていただく時、初めて私たちは「本当に生きる者」になります。

そのイエスさまはどこにおられるのでしょうか。 イエスさまはこうおっしゃいます。

「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)

ミサの中でも、「主はみなさんと共に」と繰り返し言われます。これは単なる形式的な挨拶(あいさつ)ではありません。主であるお方が共におられるという真実を言っているのです。

また、「また司祭と共に」と言われます。神さまは、そしてイエスさまは、私たち一人ひとりと一緒の顔と体の向きでいてくださるのだと私は理解しています。

だから、その真実の中にただ入らせてもらって、イエスさまと一緒に、今日出会う人の中に神さまのいのちがあることを見て生きるいのちになる。そのことに触れて生きるいのちになる。これが私たちの信仰です。

そのお方の眼差しに結ばれて、亡くなられた一人ひとりを思い、「神さまが共におられる」という真実をイエスさまと一緒に見させていただくことが私たちの信仰です。

死ですべてが終わるなら、今日の福音に登場した人々のように泣き悲しむでしょう。でも、私たちのいのちは決してそんなものではありません。神さまと共に死を超えて生きる「いのち」です。そこに信頼を置いて生きるようにと呼びかけを受けています。

私たちのいのちの砦(とりで)は、主である神さまです。今日、私たちの心の中に、自分を怖がらせる何らかの要因があるかもしれません。恐れさせるような何らかの原因があるかもしれません。でも、イエスさまはそのままに「恐れることはない。ただ信じなさい」と言われます。

私たちのいのちを恐れさせるさまざまな要因があっても、ただ「永遠のいのち」の神さまに信頼して触れる。「永遠のいのち」の神さまのレコード盤に、私たちのいのちの針を、ただそこに置いたらよいのです。

今日このあと、幼児洗礼式になります。赤ちゃんが「永遠のいのち」の神さまに全生涯の信頼を置いて生きる者になっていくように、「聖霊」という恵みを受けます。

聖霊とは、イエス・キリストの霊です。イエス・キリストこそ、「永遠のいのち」の父にご自分の信頼の針を置いて、一生そこから何があっても針を上げてしまうことのないお方でした。その幸いに、洗礼を受ける子どもが今日入る恵みをいただきます。

私たちも、自分が受けた洗礼の恵みを思って、ご一緒にお祈りをしましょう。また、「いつか自分も洗礼を」とお望みになられるお方がおありになると思います。その方々は、その時の恵みを願って、ご一緒にお祈りください。

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稲川 圭三

稲川 圭三

稲川圭三(いながわ・けいぞう) 1959年、東京都江東区生まれ。千葉県習志野市で9年間、公立小学校の教員をする。97年、カトリック司祭に叙階。西千葉教会助任、青梅・あきる野教会主任兼任、八王子教会主任を経て、現在、麻布教会主任司祭。著書に『神さまからの贈りもの』『神様のみこころ』『365日全部が神さまの日』『イエスさまといつもいっしょ』『神父さまおしえて』(サンパウロ)『神さまが共にいてくださる神秘』『神さまのまなざしを生きる』『ただひとつの中心は神さま』(雑賀編集工房)。

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