【自民党総裁選】石破茂氏のひいおじいちゃんは牧師

「私、石破茂は自由民主党の総裁選挙に立候補する決意を致しました」と1日午後6時半過ぎに自身のツイッターでも表明した石破茂元幹事長。プロテスタントのクリスチャンだが、その信仰はそもそも4代さかのぼり、新島襄から洗礼をさずけられた曾祖父から始まる。その名は金森通倫(かなもり・みちとも、1857~1945)。

2013年のNHK大河ドラマ「八重の桜」にも金森は登場する。演じたのは柄本時生(えもと・ときお)。柄本明と角替和枝の次男で、同じく俳優の柄本佑は兄だ。以下、イメージしやすいように「八重の桜」の配役も付記しておく。

新島八重(綾瀬はるか)が洗礼を受け、襄(オダギリジョー)と結婚した1876(明治9)年には、同志社にとって大きな出来事があった。9月、熊本から一挙に約40人もの生徒たちが同志社に入ってきたのだ。

その中には、のちに「組合教会の三元老」と呼ばれる小崎弘道(古川雄輝)、海老名弾正(阿部亮平)、宮川経輝がいた。当時20歳。その1歳下が金森や横井時雄(黄川田将也)だ。同志社を卒業すると、金森は岡山教会、横井は今治教会の初代牧師となって、瀬戸内海を挟んでそれぞれ教勢を競い合うことになる。東京の小崎、上州の海老名、大阪の宮川、岡山の金森、四国の横井というのが、熊本バンドから同志社第一期卒業生として巣立っていった有名な牧師たちだ。

熊本バンドというのは、札幌バンド(内村鑑三や新渡戸稲造など)、横浜バンド(植村正久や井深梶之助など)と並び称される日本のプロテスタントの三大源流の一つ。

熊本バンドは、熊本洋学校で教えていたL・L・ジェーンズに影響を受けた青年たちのことをいう。同志社に入る8カ月前の1876年1月、彼らは花岡山に集まって、キリスト教によって新しい日本を切り開くことを誓う「奉教趣意書」にみなで署名をした。それが大きな問題となり、洋学校は廃校となり、生徒は親類縁者から激しい迫害を受けることになる。そこでジェーンズからの依頼により、その生徒たちを同志社で受け入れることになったのだ。京都に到着した当初の彼らは、まさに着の身着のままで熊本を飛び出してきて、持ち物といえば英語の聖書だけだったという。

彼らは、同志社で教えていた基礎的なことはすでに熊本で学び終えていた。むしろ、聖書についてさらに深く学ぼうとの志をもってはるばる京都まで出てきたのだ。

そこで同志社では、「予科」(神学科)を彼らのために新しく設けることにした。熊本バンドの生徒は、親からの学費や生活費などの仕送りが期待できなかったため、年上だった彼らが低学年の生徒を教えることによってその代わりとしたという。

金森もほかの熊本バンドのメンバーと同様、家出同然で熊本から出てきて、浴衣一枚でずっと過ごしていた。冬になり、その姿を見るに見かねた八重は、祈祷会の帰りに綿入れをあげたといわれている。帰り道、肌を刺すように寒く、さっそく綿入れを羽織ってみると、そのあたたかさと言ったら!

金森は同志社に入学して、襄から洗礼を受けた。それから数えて石破氏は4代目のクリスチャンになる。母方の曾祖父が、この金森通倫。金森は同志社入学から3年後の1879年、同志社神学科を卒業し、翌80年から86年まで日本組合基督教会・岡山教会の牧師を務めた。またその間、同志社普通学校長兼神学校長も兼務している。

しかし1898年、41歳の時にいったん棄教するのだが、16年後の1914年、妻の死を通して信仰を回復し、救世軍に入隊する。その後、27年にはホーリネス教会に入り、晩年は湘南の葉山の洞窟で暮らすという数奇な人生を歩んだ。

金森の妻、旧姓・西山小寿(こひさ)は神戸英和女学校(現在の神戸女学院)の第1期生で、岡山の山陽英和女学校(現在の山陽学園)の創立者の一人(初代専任教師)。二人の間にできた長男、太郎が石破氏の祖父で、その長女の和子が石破氏の母親となる。父親は鳥取県知事から参議院議員になった石破二朗氏だ。

 






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