【インタビュー】日本基督教団総会議長・石橋秀雄さん(1)「社会活動家ではなく、伝道者になるんだ」

 

日本最大のプロテスタント教団である日本基督教団。その総会議長である石橋秀雄さん(越谷教会牧師)に、今回の新型コロナ・ウイルス感染防止対策を振り返りつつ、教団のことと、ご自身の歩みについて話を聞いた。いつもとは違ったリラックスした姿の石橋さんの素顔に迫った。(聞き手:MARO、坂本直子)

──日本基督教団では、「感染の危機が高まっている地域の教会・伝道所では、極力、教会に集わない方法で礼拝をささげることを講じてください」と声明で訴えられました。ここに至った背景について教えてください。

4月に入り、日本基督教団の信徒で、製薬会社を経営する医療従事者からの提言が、総会議長である私宛てに送られてきました。そこには、「防疫の基本は、『自分は感染していない』ではなく、『自分は感染者であり、他者に感染させない』姿勢で臨むこと」、そして「不顕性感染がすでに蔓延(まんえん)している」という二つのことが書かれていました。

それを受けて、ただちに私たちの教会では自宅礼拝をすることに決めました。「礼拝を休むことは大きな痛手だけれど、愛のわざとして受け止め、他者の命を守ることを第一として、自宅礼拝を」と訴えました。第一礼拝(午前7時45分~)を録画して、ただちに教会ホームページにアップし、主礼拝(10時40分)で自宅礼拝者と一緒に礼拝をささげました。全国の教会でも同じように、離れていてもそれぞれ工夫して礼拝をささげてきました。

教団の信仰告白では、「礼拝から愛のわざ」が一体の関係にあることを告白しています。「礼拝から命を守る愛のわざへ」を訴えたことは、全国の教会に受け止められたと理解しています。

ただ、礼拝が会堂でできなくなると席上献金が集まらず、特に地方の小さな教会は財政的危機に陥る危険もあります。日本基督教団として声明を出した以上、その責任は教団にあります。1億円の資金を用意し、教区を通しての教会支援を行っていきます。

──石橋議長だからこそ出せた声明なのかなとも感じます。

日本基督教団はややこしいところで、教団紛争の痛みを持った歴史を歩んでいます。「社会派」と「教会派」などと言われて分裂した時代がありました。このような問題がある中で、私は5期10年も教団議長を務めました。「この私が」と信じられない思いでいます。「弱い時にこそ強い」、「危機の中にあってこそ強い」と、ただただ神のあわれみと力を深く受け止める10年の歩みでした。

──教団総会が荒れると聞きます。

1970年から2014年くらいまで、野次(やじ)と怒号(どごう)の中で総会は荒れました。総会で議長席が占拠されたり、総会が粉砕されたり、東京教区総会や大阪教区総会が長く開催できなかったり、「会議性の回復」と「伝道する教会の建設」が教団の最大の課題になっていきました。2010年に私が最初に議長に選任されて2期目くらいから野次が少なくなり、最近は野次がなくなりました。寂しいです(笑)。

──どのくらい前がひどかったのですか。

学生運動の嵐が吹き荒れ、教団紛争に入り、1969年には教会の総会が粉砕されたり、教会の解体を叫ぶ青年たちが教会の礼拝を妨害したりしました。東京神学大学(東神大)も学生運動の影響を受け、学生によって大学がバリケード封鎖をされてしまいました。私は当時、東神大大学院の2年生で、70人委員会に属して、そうした学生と対峙(たいじ)しました。

やがて大学は機動隊を導入してバリケード封鎖を解除し、授業を再開しましたが、この機動隊導入ということに対して全国の教会で批判が起こり、深刻な教団紛争に入っていきます。

──「社会派」とはどういう立場ですか。

神は教会を通してではなく、世界に直接に働いておられるとして、神のご意思を社会の中で受け止めようとする立場です。「世に仕える教会」、「世に開かれた教会」、「社会の課題に責任を持つ教会」ということが強調されていきました。そういう中で「社会派」と呼ばれる人々が教団の教会の中心になっていったのです。

「弱い人と共にいる」、「差別をされている人々の痛みを共に負うことによって十字架のイエスに出会える」ということが強調されるとともに、教団の中で伝道が否定され、「伝道」が死語になってしまいました。そして、「イエスの十字架までは従っていくが、復活は信じない」と言う人々が増えていきました。私が学生の頃は、史的イエス(信仰の対象としてのイエスではなく、歴史の中のイエス)の研究が盛んで、贖罪(しょくざい)信仰が否定されてしまったのです。

「私は社会活動家になるのではない。伝道者になるんだ。贖罪信仰が否定されて伝道できるか」。そういう強い思いをもって私の伝道者の歩みが始まりました。

そういうわけで、私が教団議長になるまでは教会用語が使えない状態でした。小島誠志(おじま・せいし)先生が総会議長の時代(1996~2002年)からその戦いが始まって、山北宣久(やまきた・のぶひさ)先生の時代(02~10年)にようやく「伝道」ということが言われるようになりました。そして、私が議長に選任されたとき、「伝道に熱くなる教団、伝道に熱くなる教会へ」と議長挨拶(あいさつ)をしたのです。(2に続く

 






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