【毎月1日連載】牧会あれこれ (26) 老いてこそ

江戸時代、年寄りを揶揄(やゆ)するが如き狂歌が世に出た。
「皺がよるほくろが出来る、背がかがむ、頭は禿げる、毛は白くなる
手は振るう、足はひょろつく、歯は抜ける、耳は聞こえず、目は疎くなる
身に合うは頭巾、襟巻き、杖、めがね、湯たんぽ、温石(おんじゃく)、しびん、孫の手
くどくなる、気短になる、愚痴になる、思いつくことみな古くなる、
聴きたがる、死にともながる、淋しがる、でしゃばりたがる、世話焼きたがる、
又しても同じ話に孫ほめる、達者自慢に人をあなどる。」
*作者は横井也有(1702-1783)。尾張藩家中。俳文、漢詩、 和歌、狂歌、茶道などに親しむ。

元々、この歌は作者が自戒を込めて詠んだと言われているが、老いた者が見れば、なるほどと肯くことが多い。まずは鏡に映った己の顔を見て愕然(がくぜん)とし、歩く足の動きの鈍さにいらつき、人の話を聞きながらつい耳に手をやって二度聞きする自分が嫌で、聞こえたふりをして生返事をすると相手が怪訝(けげん)な顔をするのに気が臆し、若い時には当たり前のようにできたことがひとつひとつ出来なくなっていくことに哀愁じみた思いを感じない年寄りはいない。最近、社会全体もそうであるように教会に高齢者層が増えてきた。そのため高齢者対策に工夫を凝らす教会も少なくはない。

多くの高齢者は、若い時代から長年の教会との関わりを持ち、その中から自然に与えられた賜物(たまもの)を高齢者は身に付けている。元々、教会というところは人間同士が関わり合って集団を構成している。しかも誰でも年令性別に関わりなく自由に教会に来ることができる。誰であれ自由に教会に来ることができるということは、それだけ多様な人間模様が渦巻くところに身を置くことである。となれば、良い事ばかりが教会にあるわけではない。イヤな事も経験する。しかし、長年教会に連なっていると、何時の間にか酸いも甘いも噛み分けて懐深くすべてを包み入れるようになる。そうさせるのは信仰の力といってよいかも知れない。信仰は、如何なる否定的現実も肯定的に受け止める力を人に持たせる。老いるとは人生の終わりに起こった現実である。その老いの現実が先にあげた狂歌の如きであっても、信仰によって穏やかに老いの日々を過ごす自分を見るのではないだろうか。信仰は如何なる否定的現実も恵みに変えるからである。

老いの凋落(ちょうらく)を現実に負う自分を見ていると、いくら自分で強がったとしても坂道を転がり落ちるような自分の身を押し留めることはできそうにない。しかし、信仰は転がり落ちたところに何が用意されているかを教えてくれる。「老人は夢を見る」(ヨエル3:1)は、まさしく至言である。

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