コラム

牧会あれこれ(1)賀来周一

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説教雑感

牧師であって、毎週の説教作りに苦心しない人はいない。しかし、説教というものはなかなか不思議なというべきか、恐るべきというか、自分ではよくできたと思う説教は予期するほどには受けがよくなく、会衆のこころに届いていないことがある。と思えば、「今日の説教は準備不足でお粗末だった」と内心忸怩(じくじ)たる思いでいても、「今日の説教は良かったですよ」と褒(ほ)められることもある。だからといって、それで事が済むというわけにはいかないのが説教である。

ある時、礼拝が終わって、会堂の玄関のところで帰途につく信徒の方と挨拶(あいさつ)を交わしていると、ひとしきり列が途絶えた頃に、一人の方がつかつかとやって来て、こう言われた。「今日、わたしは礼拝に来ようかどうしようかと、とつおいつ悩みながらやって来たのですが、来てよかった。今日の説教で先生は〈にもかかわらず〉と三度おっしゃいました。〈なるほど、そうか〉と思いました。ありがとうございます」と深々とお辞儀をされる。

「まさかそんな言葉に反応が来るとは」と意外に感じ、「どうしたのですか」と聞くと、自営業を営むその方は、商売がうまく行かず、破産寸前の事態に追い込まれ、頭を抱えて教会にやって来たということであった。そこへ、〈にもかかわらず〉という言葉が耳に響いた。それも一度ならず二度、三度。「よし、それならもう一度やり直すか」という気持ちがどこからともなく湧(わ)いてきたというのである。人はその人の抱えた事情の中で説教を聞いていることをつくづく体感したひと時であった。

説教の準備をするにあたっては、原典に当たり、註解書や参考資料を読み漁(あさ)り、最近ではインターネットで情報収集を試み、会衆に聞いてもらいたいポイントを中心に説教の流れを作る。しかしながら、説教者の意図するままに会衆に届くかどうかは分からない。教会に集まる人たちは、表に出ているにせよ、密かに秘められているにせよ、それぞれに何らかの事情を厳しく抱えている。その事情が、説教の受け皿になる。つまり説教というものは、いったん語られるや、説教者の狙(ねら)いどおりに聞かれることなく、聞く側の事情という受け皿で受け取られることになる。受け取られた結果は、それぞれに異なる実を結ぶ。

そもそも説教の主体は、説教者自体にはない。主体は、神の言葉としての聖書にある。ルターは、「神の言葉を聞いたならば、驚かなければならない。聞いて驚くなら、人間の知恵は退き、神の知恵が働く」と言う。驚くとは、聞く側の理解を超えて、語られた神の言葉が聞いた者の中で自在に働くことを意味する。聞いた者がそれぞれの事情の中で受け取った神の言葉は、当人にとってなくてならぬ必要な恵みの実を結ぶ。場合によっては、時を超えて実を結ぶことさえある。

さらに説教には、隠れた重要な要素がある。それは会衆にとって〈何が〉語られているかはもちろんのことだが、〈誰が〉語っているかはもっと重要になる。医師、教師、カウンセラーなど、人を相手にした仕事をしている人には、必ずこの〈誰が〉がつきまとっている。仕事の場で提供する〈何を〉についての専門性は当然期待される。だが、その専門性を提供してくれる人が〈誰で〉であるかは、もっと期待されるものだ。

牧師は、典型的に人を相手にする仕事に従事している。とくに説教の場では、上手下手よりも、説教者が〈誰で〉であるのか、その実像を会衆は想像しながら聞いている。その実像が相互の信頼関係を生み出す。いったん信頼関係が出来上がると、どのような説教であれ、会衆のこころに届く。信頼関係がなければ、どんなに上手な説教をしても、会衆のこころに届かない。(キリスト教カウンセリングセンター理事長)

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