牧会あれこれ(10)賀来周一

 

不幸と信仰

世の中には不幸と見えることがごまんとある。

しばらく教会に来ていた人が来なくなったので、教会がイヤになったのかと思っていたら、またひょっこり顔を出すようになった。「お顔が見られて嬉しいですよ」と言うと、「実は最近、次々と不幸が続いたので、何とかならないかとある宗教団体に行って、『幸せになるように祈ってくれ』と言ったところ、『あなたには悪霊がついている。その悪霊を追い払うためには祈祷料がいる』と言われた。どうも腑(ふ)に落ちないので、また教会に戻ってきた」と言う。「何かきっかけがあったのですか」と尋ねてみると、「聖書には『不幸でもよい』と書いてある。その意味を知りたくて帰ってきた」とのことであった。

その人が聖書に見つけた箇所は、ルカ福音書の6章20節以下である。

「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる。人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある」

聖書には逆説的とも思える教えがある。このイエスの教えもそのひとつである。しかし、その逆説性の中に、福音として聞くべきメッセージが込められていることを知らねばならない。

まず、この教えが説かれた状況を聖書の記述に見てみよう。おびただしい群衆がイエスの教えを聞こうとして集まっていた。これだけの人が集まれば、中には不幸と思う問題を抱えてイエスの教えを聞く者も少なからずいたであろうことは想像にかたくない。そういう人々は、生活が楽になるように、飢えが満たされるように、悲しみが慰められるように、苦しみが喜びに変わり、病が癒やされるようにと願って、イエスを見つめたことであろう。しかし、人々の期待に直接的に応じる答えはない。

イエスの教えには、人々が不幸と思うことが幸いを産むとして取り上げられている。意外と言うべきであろうか。

ヨハン・クリストフ・ブルームハルト(1805~80。ドイツのルーテル教会の牧師)は言う。「神は地上の神である。だから、世の中がイヤになったからといって目を背けてはならない。イヤになればイヤになるほど、そこに神の働き場を見る」と。彼はさらに言う。「困窮と貧しさの中にじっと座っていよ。辛抱せよ。辛抱せよ。そうすればやがてあなたは、『ハイ、私はここにおります』と応えることができるようになる。その時、あなたの前に温かいスープが用意されていることに気づくであろう」

信仰は、貧しさや困窮を通して、地上における神の働きを私たちに見せてくれるのである。その時、不幸は嘆きに終わることなく、究極の幸せとしての祝福へと導く。ブルームハルトはこの信念に立ち、多くの人を癒やした。トゥルナイゼンは、その様(さま)を見て、「ある者は癒され、ある者は癒されなかったが、生きる勇気を得た」と記した。

教会に戻ってきた人は、不幸を単に地上の不幸に終わらせることなく、不幸と信仰を通して、地上で働く神の働きにあずかる世界があることを教会に求めて帰ってきた。放蕩息子も、不幸な目に遭わなければ、父の家に帰ってはこない。

参照:、井上良雄『神の国の証人ブルームハルト父子』、『トゥルナイゼン著作集 第6巻』(新教出版社)

 






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