牧会あれこれ(11)賀来周一

あるべき本来の自分

カウンセリング講座を受講中のある女性が、講座が終わると私のところへやって来た。「最近、どうも気持ちが落ち込んで何もする気が起こりません。すべてが億劫(おっくう)になってしまうのです」と細々した声で語る。「何もする気が起こらないとおっしゃるが、こうやってカウンセリングを学びに遠くからおいでになるじゃありませんか。素晴らしい」。私はそう答えた。

数年経った頃、他の受講生とお茶を飲みながら彼女は言う。「こんなことを今さらと思われるかもしれませんが、カウンセリングの勉強を始めたとき、私は何もできない自分を見つめていました。その私に先生は、『カウンセリングの勉強をしているじゃありませんか。素晴らしい』と言ってくださった、あの一言が私を変えました。何もできない自分でなくて、今、カウンセリングを学んでいる自分に気づいたのです。あの一言で、こうやって元気にしている私がいるのです」。私自身は、そんなことを言ったかどうか、すっかり忘れていた。

人間は、本来のあるべき自分を発見すれば、少々の困難は乗り越える力を取り戻す。たとえば、子どもが不登校になった母親が相談に来たとする。「子どもの将来を考えると心配で仕方がありません。どうしたらよいでしょう」と訴えるのに対して、「お母さん、それはご心配でしょう。人が将来のことを考える時に、心配するのは当然のことです。将来の問題は、心配しないと解決しないのです。ですから、心配するということは、健康な証拠です」とカウンセラーは言うかもしれない。そこで母親は、心配している自分から、「心配していて構わない」という気持ちになる。そうすると、子どもが学校に行かないという問題に対して、ゆとりをもって見る目ができる。

今ひとつの例を挙げてみよう。やはり不登校の子どもを抱えた、ある母親のことである。いろいろと自分でも勉強し、専門機関にも相談をしてきた。しかし、努力を重ねたわりに、一向に埒(らち)があかない。カウンセラーは問いかける。「これまで何をしても子どもは変わらないとおっしゃったけれど、今、子どもさんにしておいでのことは何ですか」。「食事を作るくらい」。「それは素晴らしいことです。お子さんがいちばん喜ぶ料理を作ってください」。「それくらいならできます」とその母親は答えた。子どものことで八方手を尽くし、もはや打つ手はないと思っていたが、食事作りはしている自分がいることに気がついたのである。それは母親だからこそできる自分の発見であった。

上に挙げたそれぞれの例は、「何もできない」、「何をしても効果はない」、「こんなことでは」と思い込んでいる自分が表に出ている。しかし、その後ろには、「何かをしなければ」という自分が隠れているのである。その後ろに隠れている自分こそが、あるべき本来の自分であって、それを取り戻したのである。その作業のため、カウンセラーはほんの少しばかりお手伝いをしたにすぎない。

 






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