【毎月1日連載】牧会あれこれ(17)賀来周一

 

伝道者であるとは

イエスは12人の弟子を伝道に遣わすに際し、こまごまとした伝道者の心得を伝えた。そのあたりの事情については、マタイ福音書10章1~15節に見ることができる。

「『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人を癒やし、死者を生き返らせ、規定の病を患っている人を清め、悪霊を追い出しなさい」(7~8節)と、伝道にあたってイエスは弟子たちに権能を委託した。また、「帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れてはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物(はきもの)も杖(つえ)も持って行ってはならない。働く者が食べ物を受けるのは当然である」(9~10節)と言って、伝道者の生活に触れる。さらに、「町や村に入ったら、そこで誰がふさわしい人かを調べて、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶(あいさつ)しなさい」(11~12節)と、コミュニケーション作りまで丁寧に指示している。

そもそも、イエスの伝道を手助けするために選ばれた12人の弟子は「多士済々(たしせいせい)」とは言えそうにない。イスカリオテのユダのような問題児もいたし、熱心党のシモンと言われる反ローマ勢力の一派に与(くみ)する者、ペトロのように直情的でやや軽率な者、主の兄弟ヤコブのように厳格な律法主義に走る者もいた。弟子となる以前の仕事も、漁師あり徴税人ありと雑多である。それだけに、細かい気配りの利いた指示が必要だったのであろう。

筆者自身、伝道がうまく行かない苦(にが)い経験をたびたび経験した。懸命に訪問し、説教に力を注いでも、一向(いっこう)に人が集まらない。追い詰められたような気持ちになったことは一度や二度ではない。しかし、イエスが示された伝道の使命とは、神の国の福音を宣べ伝え、委託された権能を果たすことにある。人集めが伝道ではないことを、この聖書の箇所から学んだ。

さらに加えて、「帯の中に金貨も銀貨も銅貨も入れてはならない。旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない」(9節)とある。何も持ってはならないということである。これは「無一物で伝道せよ」ということではなく、「働く者が食べ物を受けるのは当然である」とあるように、弟子たちを迎え入れた人々に支えられて生活をするのが伝道者の基本ということであろう。

伝道者は金銭的に恵まれることはない。けれども、生活は常に支えられてきた。なぜ、それが可能となるのであろうか。集まる人々が増えるほど、多く支えられるのか。イエスはそうおっしゃらない。「その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい」と言われる(12節)。伝道は、平和の挨拶で始まる。平和は、人が生きるための根源だからである。平和で構築された人間関係は、互いの助け合いを生む。教会はこの関係に立って、この地上におけるさまざまな援助活動を行ってきた。伝道者の生活もこの働きで支えられている。

こうしてイエスは伝道の目的やあり方について指示されたが、その指示どおりに事を進めれば必ず伝道が成功するとは言われない。「あなたがたを受け入れず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいれば、その家や町を出て行くとき、足の埃(ほこり)を払い落としなさい」と言われる(14節)。これは、伝道の目的が遂げられずに終わることがあることを予期した言葉である。しかし、「足の埃を払い落としなさい」とは、次の伝道地へ赴くための気持ちを生み出し、気落ちすることなく再び勇気を取り戻す励ましの言葉ともなっていることを知りたい。

 






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