【毎月1日連載】牧会あれこれ(22)賀来周一

あんたら、キリストさん背負(しょ)ってるからな

ずいぶん前のことになる。エルサレムに行く途中、ギリシアに住む知人を訪ねる機会が与えられた。時間のゆとりができたので、知人と共に、マラソンの名の由来となったマラトン(アテネの北東約40キロ)に行くことになった。

途中、農村地帯を車で走っていると、ところどころ道と道が交差するところに、日本の農村でお目にかかる道祖神のような像を祭った祠(ほこら)があり、花が供えてあるのに気がついた。「あれは聖クリストファーの像ですよ」と知人が教えてくれた。旅の安全を守る聖人として崇(あが)められているとのことであった。ギリシア語では「クリストフォロス」という。

クリストフォロスについては、よく聞く有名な伝説がある。伝説にはいくつかのバリエーションがあるが、クリストフォロスという名を持つに至ったいきさつについては共通している。

彼はローマ人で、本名は「レプロブス」といった。ある隠者に「キリストに会いたい」と願い出ると、「世の中の役に立つことをしなさい」と勧められ、大きな川の渡し守(もり)となった。

ある日、小さな子どもがやって来て、「私を川の向こう岸に渡してくれ」と頼んだ。「お安いご用」とばかり、その子を肩に担ぐと、びっくりするほど重かった。構わずに、一歩一歩川の中に足を踏み入れた。川は次第に深くなり、流れは激しくなった。けれども、肩の子どもが重いので、流れに足もとをすくわれることもなく、無事に川を渡りきることができた。

川岸に子どもを降ろすと、なんとそれはキリストであった。以来、彼は「クリストファー」、つまり「クリストフォロス」(キリストを負う者)と言われるようになったという話である。

クリストフォロスが負うキリストの重さは、全世界の苦しみ、困難、あるいは罪の重さを象徴すると解釈されているが、その重さゆえに川の激しい流れにも足もとをすくわれることなく乗り切ることができたのは、キリストを負う恵みの重さにほかならないことを教えている。

日本福音ルーテル広島教会の牧師、立野泰博(たての・やすひろ)先生の著作『被災地に立つ寄り添いびと』(キリスト新聞社)という、東日本大震災の被災地援助の記録がある。被災した人々の役に立つ援助の働きがいかにたいへんな仕事であったかを如実にうかがい知ることのできる本である。読みながら、「役に立つ援助とは、決して『お安いご用』ではすまされない」と感じ取った。

本の中に、ひとつのエピソードが書かれていた。大企業や金持ち団体は援助物資を大量に運び込んでくるが、ルーテル教会の援助は被災者の生活支援を行うため、一軒一軒訪ねて歩き、何が必要かを聞いて回ることに徹していた。「歯ブラシがない」、「ぞうきんがない」、「お菓子がない」、「買い物に連れて行ってくれ」、「子どもの守をしてくれ」などなど、頼まれたものはどんな小さなことでも引き受け、中には「こんなことまで」と思っても、実行に移した。援助する者としては、被災者が非常事態の中で日々を過ごしていることを察し、一人ひとりの必要に応じて手を差し伸べることを援助の基盤とした。それは容易(たやす)い仕事のように見えて、実は重たい仕事だった。

ある一軒の仮設住宅を訪ねた時のこと。「必要なものはないか」と尋ねると、被災者からこんな言葉が返ってきたという。

「おら、何もいらねえ。ただ、あんたらが来ると元気になるべえ。あんたら、キリストさんを背負ってるからな」

訪問した援助者は、まさかそんなことを言われるとは思わなかったに違いない。しかし、その言葉に援助の疲れはどこかへ消し飛んだだろうと想像した。信仰を基盤に置きながら援助活動を行う人々にとっては、聖クリストファーのように肩にキリストを負う存在であると知ることは、大きな援助の励みとなるであろう。

 






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