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牧会あれこれ(3)賀来周一

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一人のためは、すべての人のため

教会というところには、さまざまな人がやって来る。何十年も礼拝を欠かしたことがない信徒もいれば、通りすがりに入って来た人もいる。老若男女さまざまな人が集うことが許されるところである。

それだけに、人々が教会に求めるニーズは、その人ごとにそれぞれ異なる。100人いれば、100のニーズがある。牧師がその一人一人のニーズに合わせて相手が満足するように応じようとすれば、体はいくつあっても足りないことになる。牧会とはしばしば、そのような状況の中で営まれる働きである。

しかし、教会という人々の集団は、人のニーズに直接的に関わる以外に、もう一つの側面を持っている。それは、人と人との関係のあり方を通してニーズが満たされるということである。

人数がさほど多くない教会の中では、牧師がどのように人のニーズに対応しているか、そのためにどのような言葉を交わし、どのような態度を取っているかなど、そうした関係のあり方を、人々は身近なところで感知する。そして、牧師が相手に誠意をもって接しているか、公平であるかなどを、言葉の端々や何気ない振る舞いの中に見て、自分自身と牧師の関係はどうなのかを自分で判断する。自分で判断するとは、「牧師もきっと同じように自分のことを考えていてくれるのであろう」と自己裁量をしてニーズを満たすことを意味する。

人数が多い教会になると、信徒同士の関係も同じように観察の対象になる。信徒同士が交わす言葉や雰囲気を感じながら、自分のニーズは教会で満たされるかどうかを推し量っている。ニーズが満たされると思えば、教会を自分の居場所に定めるであろう。関係性が生み出す言葉の端々、また雰囲気は、気づかないうちに人のニーズの受け止めに影響しているものである。

事情によるとはいえ、牧師との関係が日ごろ疎遠であれば、自分と教会の関係をさまざまな手段で推し量る。それは、教会からのニュースレターが送られてきて、その端に牧師からの添え書きがあれば、その一文に自分と教会の牧会的関わりを自己なりに推量することもある。

教会との牧会的関わりといえば、それをよく表す典型的な例として、葬儀の説教がある。「葬儀の説教では誰も居眠りをしない」と言われるが、それは、牧師が故人のことに触れながら説教をしている時、「自分が死んだ時に牧師はどのような説教をするであろうか」、「それを聞いた教会員や参列者はどのように感じるであろうか」と自分に置き換えて説教を聞いているからである。

この時代の教会は、高齢者を多く抱えるようになってきた。死を間近に控えた高齢者は、常に頭の片隅に死の影を宿している。そうなると、葬儀の説教は他人事ではなくなってくる。他者の葬儀の説教を、自分と教会との牧会的関係として聞いているのである。

他者のことを自分のこととして受け取るよい例に、牧会書簡が挙げられる。テモテへの手紙ⅠとⅡ、テトスへの手紙である。いずれの書簡も個人に宛てて書かれている。個人に宛てた書簡としてはフィレモンへの手紙もある。一人の他者に宛てた手紙が、自分を含めすべての人のニーズに応える例である。同じことはルターにもカルヴァンにも言える。両者共にいくつもの牧会書簡を残しているが、いずれも個人に宛てた書簡である。にもかかわらず、大勢の人が自分のニーズへの応えとして読んでいる。

牧会は、一人のための教会の働きであると言われる。その一人のニーズを満たすための働きが、多くの人のニーズを満たす働きとして実を結ぶ。

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賀来周一(かく・しゅういち)

賀来周一(かく・しゅういち)

1931年、福岡県生まれ。鹿児島大学、立教大学大学院、日本ルーテル神学校、米国トリニティー・ルーテル神学校卒業。日本福音ルーテル教会牧師として、京都賀茂川、東京、札幌、武蔵野教会を牧会。その後、ルーテル学院大学教授を経て、現在、キリスト教カウンセリングセンター理事長。

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