コラム

牧会あれこれ(5)賀来周一

病気の時も恵みの時──ある婦人の証し

ハーバード大学教授で米国聖公会の篤信の信徒であったゴードン・オルポート(1897~1967年)は、同大教職員の人種偏見に関する態度について調査を行った。その中で、信仰のあり方を「外発的志向」と「内発的志向」に分けて調べたところ、外発的志向のほうが偏見を持ち、内発的志向は偏見を持たないという結果を発表している(参照:G・W・オルポート著、依田新他訳『心理学における人間』培風館)。

信仰のあり方が外発的ということは、自己中心的であることを指し、自分が主役となる信仰のことである。そうなると、自分にとって都合のよい自己目的のために信仰を持つことになる。結果として、「自分さえよければ」という態度を生み出し、物事に対する判断が自己尺度的となり、偏見が生じる。

外発的な信仰が自己中心的であるのに対して、内発的な信仰は神中心的であり、自分が主役とならない信仰を意味する。信仰の究極的な規範となるものを自分の外に置いているのである。

とはいえ、生身の人間は、生きるための現実的な欲求を持っている。本能による欲求に加え、自己実現欲求があり、現実生活をより快適に生きるための社会的・経済的な欲求もある。けれども、信仰の規範を自己の外に置く限り、それらの人間的欲求の充足を究極的な目的にはしない。オルポートは、「外発的信仰志向は危機に際して役に立たない」という。

ある婦人ががん疾患で入院中であったが、医学的にはもはや回復の見込みがないと告知され、ご本人も自分の状態を承知であった。筆者が見舞いに行くと、こんなことを言われた。

「先生は私のところにおいでになると、『病気の時も恵みの時』とお祈りをされます。先だって隣の人の見舞いに来た人が私のところにも寄って、『あなたはキリスト教を信じているが、それでは病気は治らない。自分が信じる宗教に変われば治る』と言います。私は治りたいのです。嘘(うそ)でもいいから、『信仰があれば治る』と祈ってくれませんか」

しかし、その後すぐニコッと笑って、「でも先生、『病気の時も恵みの時』というのが本当ですね」と言う。

もはや治る望みはない。けれども、信仰があれば病気が治ると信じたい。生身の人間としては、もっともな願いである。けれども、その願いは叶(かな)わず、死がやって来る。その現実を受け入れることが恵みである。彼女はそう告白して、そのひと月後、天国へと旅立った。

彼女にこのような告白をさせた信仰こそ、内発的な信仰である。もちろん人間は肉なる存在として、この婦人のように、「自己中心的な外発的信仰」と「神中心的な内発的信仰」が精神内界では大なり小なり互いにせめぎ合う。だが、最後に勝利するのは内発的信仰である。

オルポートは、「内発的な信仰を養うためには、聖書を読み、教会生活を忠実に送ることである」と言う。聖書は神の言葉である。宗教改革者ルターは、「神の言葉を聞いたならば、驚かなければならない。神の言葉を聞いて『よく分かった』と言うなら、人間の知恵は働いているかもしれないが、神の知恵は働いていない。驚いて聞くなら、人間の知恵は退き、神の知恵が働く」と言う。また教会は、歴史の荒波の中に揉(も)まれつつも、すべてのことに働く神の御心を宣べ伝え続けてきた。その教会に自分を忠実に置くことは、自ずと神中心の信仰を身につけることになる。

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