コラム

牧会あれこれ(6)賀来周一

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体感する信仰

熊本県のある都市で長らく教会付属幼稚園の先生をしていた老婦人のことである。

ある日、教会でこの婦人に話しかけている青年がいた。「信仰とは何でしょうね」。すると、「そりゃー、あーた、自分より偉(えら)かもんば持つこったい」と熊本弁での返事が聞こえてきた。これを標準語にすると、「それはね、あなた、自分より偉いものを持つことですよ」となる。わざわざ熊本弁を引っ張り出したのは、言い得て然(しか)り、ポンとヒザを打ちたくなる感じがしたからである。

「子どもに分かる説教は、大人にも分かる。しかし、大人への説教は子どもには分からない」と、説教学の授業で聞いたことがある。おそらく、この老婦人は長い間、キリスト教幼児教育者として園児たちと接する中で、「神さまを信じるとはどういうことか」を園児たちに分かるように教えるには、「自分より偉かもんば持つ」と言うのがいいと考えるようになったにちがいない。しかも、地元訛(なま)りの言葉で聞けば、「神さま」は子どもの生活レベルの言葉になり、ぐっと身近な存在になる。この婦人が教えた園児たちは、おそらく大人になって人生の危機に出会うとき、子どもの頃に慣れ親しんだ言葉、「偉かもん」を思い出して、息を吹き返すであろう。

戦前の日曜学校の生徒であった筆者自身もまた、そのようなイメージを抱いている。「うるわしき朝も静かなる夜も、食べ物、着物もくださるイエスさま……」や、「さようなら、皆さま、イエスさまと共に帰りましょう……」とお辞儀をして帰る時、そこにいるイエスさまはいつもそばにいる存在だった。

次第に歳を重ね、人生の節目を感じると思い出したように、子どものときの賛美歌を口ずさんでいる自分がいる。「小さい時はサンタクロースを信じていても、大人になると『そんなものはいないよ』と言う。しかし、お爺(じい)さんになるとサンタクロースになりたがる」と言われるが、それと同じだ。つまり、子どものときに染みついた思い出は、歳を取れば取るほど、それを身近に実感したくなるからだ。

大人になって「神はいないのか」と、「神」を探すこともある。「神がいるなら、もっとよいことがあるにちがいない」、「神を信じれば病気が治るのでは」、「神がいれば、この苦しみから抜け出せるのに」と、身近な神、あの「偉かもん」を頭の中に探し回っていることはないだろうか。しかしながら、頭の中では「偉かもん」は死んでいる。

信仰の世界は、大人だけの世界ではない。子どもたちも同じように信仰の世界の中にいる。子どもたちの世界にいる、あの「偉かもん」は、大人の世界にも同じようにいる。イエスが「神の国はこのような者たちのものである」(マルコ10:14)と言われたのは、何も子どもたちの純粋さや素朴さだけを取り上げたのではあるまい。弟子たちが代表する大人たちに向かって、子どもたちならよく知っているあの「偉かもん」に気づきなさいということでもあろう。

それに気づくには、子どもの賛美歌を歌うのが一番よい。そこには、考える信仰の世界はない。子ども賛美歌には、体で感じる信仰の世界がある。「信仰とは役に立つのか、役に立たないのか」、「意味があるのか、ないのか」と理屈の中に押し込めてしまった信仰の世界は消えて、あるのは体感する信仰の世界である。そこには「生きた偉かもん」が友だちのように手を繫(つな)いでいてくださる。

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