NHK大河ドラマ「麒麟がくる」とキリスト教(18)第一級史料に見る細川ガラシャの最期 その2

前回は、死の覚悟を決めてガラシャが一人きりで祈ったところまでを見たが、今回は自分の祈禱部屋から出てきたところから始めよう。

そして(ガラシャは)少し祈った後、大いなる覚悟をもって部屋を出て来て、彼女とともにいたすべての侍女と婦人たちを呼び集め、我が夫が命じているとおり自分だけが死にたいと言いながら、皆には外に出るようにと命じた。皆が、彼女とともに死ぬつもりであると言って侍女たちは外に出ることを拒んだ。なぜならば、このような場合にあっては、家臣は自分の主人とともに死ぬのが日本人の慣例であり体面である以外に、ドナ・ガラシアは侍女たちからあまりにも愛されていたので、全員がドナ・ガラシアと道連れに死ぬのを望んでいたからである。しかし侍女たちは彼女の命令によって、やむなく外へ出た。(『16・7世紀イエズス会日本報告集』第I期第3巻、同朋舎、245~246ページ)

イエスが十字架にかけられる前にゲツセマネで祈った時、弟子たちは眠りこけ、最後には裏切って逃げてしまったが、このとき侍女も家臣も誰も居眠りする者などはいなかった。むしろ、ガラシャの死にお供をすると言って、おそらく涙ながらに訴えたのだろう。「ガラシアは侍女たちからあまりにも愛されていた」からだ。

カトリック玉造教会にある「最後の日のガラシャ夫人」(堂本印象作)

ところで、よく当時のキリシタンは主人によって強制的に改宗させられたと歴史書に書かれていることがある。確かにそういう集団改宗をさせたキリシタン大名も中にはいるが、当時のキリシタンは殉教覚悟、命がけで信じていた者も多くいたことは、後の禁教下において証明されている。このようなネガティブなバイアスのかかった歴史記事が散見されるが、中国や韓国の「反日教育」と同じように「反キリスト歴史観」が日本では広まっているので、どうか気をつけてほしい。ともかく、ガラシャのもとにいた侍女たちは、自ら進んで洗礼を受けた者が多かったのだ。

ところが監視隊長(家老)の小笠原殿は、他の家臣とともに邸全体に火薬をまき散らした。侍女たちが全員屋外に出ると、ドナ・ガラシアはただちに脆(ひざまず)き、たびたびイエズスとマリアの聖名を口誦(ずさ)んだ。彼女自身、両手で(髪をかきあげて)首を露(あら)わにし、そして彼女の首は一撃のもとに切り落とされた。(同、246ページ)

「監視隊長(家老)の小笠原殿」というのは、忠興が留守をゆだねた家臣の小笠原秀清(小斎)のことで、彼もまたキリシタンだった。そのことについては別の記事で詳しく述べるが、「もし自分の不在の折、妻の名誉に危険が生じたならば、日本の習慣に従って、まず妻を殺し、全員切腹して、わが妻とともに死ぬように」という忠興の命令を実行に移すため、秀清はガラシャの介錯役を務めた。介錯というのは、切腹する人の背後から首を切って即死させることを言う。

ところで「細川家記」には、ガラシャは介錯されたのではなく、小斎に長刀(なぎなた)で胸を突かせたとなっている。しかし、介錯したとするイエズス会の報告のほうが事実だと思われる。というのは、宣教師にガラシャの最期を報告したのは、実際にガラシャの最期を見届けた侍女、霜(しも)だと考えられるからだ。

細川家の侍女たちは、ガラシャ自身が教会に行けない代わりに大坂の教会に遣わされ、ガラシャと宣教師との連絡係になり、そこでキリスト教に触れ、多くの者がキリシタンとなった。ガラシャが最後の大切な役目を託すほど信頼していた霜もキリシタンだった可能性は高い。霜はガラシャから、忠興と長男・忠隆への書き置きと三男・忠利への形見を託され、最期の様子を忠興に伝えるよう命じられたのだ。

そうして細川屋敷から脱出すると、霜などキリシタンの侍女たちは宣教師にガラシャの最期を報告した。だからこそ、こうした宣教師の報告で詳細な描写が可能となったのだ。ガラシャのことだから、忠興だけでなく教会にも報告するよう言付けを頼んでいたと思われる。

時を経て1648年、ガラシャの孫にあたる第4代熊本藩主・細川光尚(みつなお)から「ガラシャの最期を知りたい」と求められ、霜は証言をした。それは今、「霜女覚書」として知られている。このことから、48年前のことを語ることのできる生き証人である霜は、ガラシャの死に立ち会った当時、まだ年若かったと思われる。この「霜女覚書」は、伝聞に基づかない当事者本人の証言であり、史料的価値は高い。

その「霜女覚書」におけるガラシャの最期の場面を分かりやすく現代文に直してみると、次のようになる

御上様(ガラシャ)の意向によると、敵がもし押し入った時にはご自害なさるおつもりだったので、その時には(小笠原)小斎が介錯するように仰いました。……小斎は「もはやこれまで」と思って長刀を持ち、御上様の御座所へ参って「今が御最期でございます」と申し上げました。……(自分が用事をしている間にガラシャ様は)すでにどこかに退かれ、力なくお果てになっておられました。小斎が長刀で介錯されたということでした。

この「霜女覚書」には、ガラシャが祈ったなど、キリスト教的なことは書かれていないが、それは江戸幕府による厳しいキリシタン禁令下にこの覚書が作成されたからだろう。しかし、宣教師による報告と共通した記述が見られる。ちなみに宣教師の報告はガラシャの死から間もなく書かれ、「霜女覚書」は半世紀経ってから、そして「細川家記」は江戸中期の1778年にまとめられたものだ。(19に続く)

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