【クリスチャンな日々】第1回 「ふさわしい」必要なんてないんです。 MARO

主の御名をあがめます。

皆様、ごきげんいかがでしょうか。はじめまして。上馬キリスト教会の教会員、MARO(マロ)と申します。ツイッターをやっていらっしゃる方でしたら、「上馬キリスト教会のまじめ担当」と言ったほうが話が早いかもしれません。

「教会員」というのは、クリスチャンではない方にはなじみのない言葉かもしれませんが、簡単に言えば「平信徒」ということです。牧師でも神父でも伝道師でもない、単なる平信徒にすぎない僕が、神様の導きを受けまして、この「クリスチャン・プレス」で連載をさせていただくことになりました。不才ながら、がんばらせていただこうと思います。よろしくお願いいたします。

さて、つい上の文章で「不才ながら」なんて言葉を使ってしまいましたが、これは実はキリスト教的には必ずしも適切な表現ではありません。なぜならキリスト教では、「神様が何かの仕事や使命を与えてくださるときは、必ずそれに必要な能力も与えてくださるのだから心配することはない」と考えるからです。ですから「不才ながら」というのは、「神様が十分に能力を与えてくれないかもしれませんが」という意味にもなってしまい、あまり適切ではないんです。

とはいえ、それでもやっぱり僕も人間ですから、仕事をするにあたり不安や心配もあるんです。「牧師でも何でもない自分が本当にこの仕事にふさわしいのだろうか。僕にそんな能力なんてあるのだろうか」と、いくら神様を信じていたって、そんなことを思ってしまうんです。この連載のほかにも、ありがたいことに本を書かせていただいたり、テレビやラジオでお話をさせていただいたり、さまざまなお仕事をいただくのですが、いつだってそんな不安はつきまといます。

近頃そんなときはいつも自分にこう言い聞かせます。「ふさわしい必要なんてない!!」。さらにもう少し踏み込んで、「ふさわしいかどうかを決めるのは神様であって僕ではない!!」と。そうすると心がすーっとラクになるんです。

(写真:Hans Robert Wolters)

旧約聖書に登場する「海割り」で有名なモーセさんだって、神様からイスラエルの指導者に任命されたときは、「私はふさわしくありません」と言い、神様から「いいからお前がやれ」と怒られました。そのほかにも聖書には似たようなシーンがたくさんあります。聖書で偉業をなしとげた人物の中で、はじめから「俺はこの偉業にふさわしい男だ!」なんて自信満々だった人なんて一人もいないんです。みんな、「私なんかでよろしいんですか」と神様に問い、神様から「そうだ、お前だ!」と言われて、不安な中で一歩を踏み出し、神様の力をいただきつつ偉業を成し遂げたんです。

そもそもクリスチャンであること自体、「自分はふさわしくない」と思ってしまう方がたくさんいます。クリスチャンであるために、「清く正しく」、「人に親切で」、「怒らず」、「下品な言葉を言わず」、「まじめで」などなどなど、たくさんの「ふさわしい条件」を自分で設定してしまって、それで自分を苦しめたり、教会から遠のいてしまったりする方がたくさんいます。ノンクリスチャンの方でも、おなじような条件を自分に課してしまって、「自分なんかが教会に行ってはいけない」とか「聖書なんて畏(おそ)れ多い」とか思ってしまう方もたくさんいます。

でもね、いいんです。ふさわしくなくっていいんです。むしろ、聖書や教会は「ふさわしくない人」にこそ開かれているものなんです。イエス様は「罪深い人」から先に救ったんですから、「ふさわしくない人」こそイエス様は優先的に救おうとしているんです。

キリスト教や聖書に限らず、仕事でも学業でも恋愛でも何でも、「自分はふさわしくない」と思って苦しんでいる方はいませんか。そんな方は、「ふさわしいかどうか」を自分で判断するのを一度やめてみるのはいかがでしょう。その判断は神様にお任せすることにしてみませんか。それで心がすーっとラクになるかもしれません。一歩を踏み出す勇気が生まれるかもしれません。「ふさわしくないからこそ選ぶ」ということも神様はよくなさるお方ですから。

そんなわけで、今日から隔週金曜日に「ふさわしくない」MAROが皆様のお相手をさせていただきます。どうかよろしくお願いいたします。

主にありて。MAROでした。

MAROさんのインタビューもぜひお読みください。

 






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