【クリスチャンな日々】第6回 寒いけど、陽(ひ)は確実に伸びています。 MARO

主の御名をあがめます。

真冬らしい冷え込みになってきましたが、皆様、ごきげんいかがでしょうか。MAROです。今日もまたお相手させていただきます。よろしくお願いします。

1年で陽が最も短くなる冬至(とうじ)から1カ月が経ちましたから、今日は1カ月前よりも確実に陽が長くなっているはずです。でもまだ「陽が長くなってきたねえ」なんて声はあまり聞こえませんし、僕もそんな感想は抱きません。むしろ冬至の頃よりも寒くなって、「春なんてまだまだ先! むしろこれから冬本番!」のような気持ちになることのほうが多いのではないでしょうか。とはいえ、実感が湧(わ)かないだけで、日々確実に陽は長くなっているんです。

さて、長年教会に通っていると、新しく洗礼を受けてクリスチャンになった方から時々、「洗礼を受けたら人生が変わるかと思ったのに、何も変わらない」なんていう話を聞くことがあります。

これって、冬至と冬の寒さの関係に似ているな、と思うことがあります。冬至を過ぎれば確実に陽は長くなっているはずなのに、それを実感できるまでには、いくらか時間がかかるということ。むしろ、冬至を過ぎてから、いちばん寒い時期がやって来るということ。

洗礼を受けてクリスチャンとしての生活を始めれば、おのずと考え方や心は変わってきます。しかし、それを実感できるまでには、それなりの時間がかかりますし、実感できるようになる前に、つらい出来事がやって来たりもします。

こんなことを言うと、「洗礼を受けよう」と思う人が減るかもしれませんけれど、僕のかれこれ15年以上になるクリスチャン生活の中で、僕を含めて、「洗礼を受けてすぐに劇的に心や人生が良くなった!」なんていう人には会ったことがありません。むしろ、洗礼を受けた後で体調を崩したり、仕事を失ったり、身内に不幸があったりと、いわゆる「試練」に遭(あ)う人さえ少なくありません。

しかし一方で、そんな時期を乗り越えた後で、「教会なんて来なければよかった」なんてことを言う人にも会ったことがありません。「試練」の中でも確実に、冬至の後の陽の長さのように、人生や心は神様の手によって好転しているんです。「冬来(きた)りなば春遠からじ」と昔から言いますが、これと同じようなことかと思います。

春の訪れを告げる福寿草(写真:Bunjii2)

洗礼って「ゴール」だと思っている方も多いのですけれど、実は「スタート」です。洗礼とは、神様の「今日この日から私が君の人生や心を良いほうに変えていくよ」という約束でもあります。その日から少しずつ心や人生が変わっていくのであって、すぐにドカーンと変わるわけではありません。ですから反対に、「これを信じれば、すぐにドカーンと劇的にあなたの人生が変わりますよ!」なんて勧誘をする「教会」や「宗教」、あるいは「自己啓発」とかの人がいたら、それは「ニセモノ」の可能性が高いですから、気をつけてくださいね。

今つらい境遇の方、つらい状況の方、つらい心境の方、いませんか。祈っても祈っても、努力しても祈っても、そこから抜けられずに苦しんでいる方はいませんか。祈り続けているなら、まだ実感は伴わなくても、抜け出す方向に向かっているかもしれません。冬至過ぎのこのいちばん寒い季節のように、「春」に向かう証しとしての「試練」の時期を通っているのかもしれません。

ですから、どうか絶望しないでくださいね。「闇は光に打ち勝たない」。「絶望は希望に打ち勝たない」。これがキリスト教の教えです。「もう祈る気力さえない」という方。そんな方のために教会はあるんです。教会があなたの代わりに祈ってくれますから、お近くの教会に行ってみてください。すぐには変わらないかもしれません。でも、きっと確実に何かは変わるはずです。

皆様が1日も早く「春の訪れ」を実感できますように。

それではまたいずれ。主にありて。MAROでした。

 






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