【クリスチャンな日々】第17回 期日前投票と「誓い」 MARO

主の御名をあがめます。

MAROです。
梅雨空が続いていまいちパッとしない気分なことも多い日々ですが、いかがおすごしでしょうか。またお会いできてうれしく思います。
今週もしばしお相手させていただきます。よろしくお願いします。

先日、東京都知事選挙の期日前投票に行ってきました。ご存知の方も多いと思いますが、期日前投票って「宣誓書」を書かないと投票用紙をもらえません。どんな宣誓をしないといけないかというと、「投票日の日曜日に投票にいけない理由があることを誓います」と、そんな内容です。

僕は日曜日は毎週、教会の礼拝に行きますから、それを理由にしたのですが、つまりこの場合「今度の日曜日に礼拝に行くことを誓います」ということになります。
選挙はもちろん大切ですけど、しかしさすがに「投票一つで誓いとは大げさな・・・」と思ってしまいます。それは特に僕がクリスチャンだから余計に強く思うのかもしれません。

「誓う」というのは、「誓う対象の責任において約束します」という意味です。「自分の良心に誓う」と言えば、自分の良心がその責任を負うということですし、「神に誓う」と言えば、神様がその責任を負うということです。いわば「連帯保証人」になるということです。ただ「私は約束します」というのとは話が違うんです。

だから聖書にはこんなことが書いてあります。

天にかけても地にかけても、他の何にかけても誓ってはいけません。(ヤコブの手紙5章12節 新改訳2017)

そこで僕はその「宣誓書」を「確約書」と書き換えて、選挙の受付の方に提出しました。それで何の問題もなかったようで、何も聞かれずすんなりと投票をすることができました。

画像:写真AC

さて、どうして誓ってはいけないのでしょうか。それは、人間は自分の髪の毛一本、自由に白くしたり黒くしたりすることさえもできない存在だからです。「今度の日曜日に礼拝に行くことを誓います」と言っても、日曜日になったら風邪をひいて熱を出してしまうかもしれませんし、何か交通トラブルが起きて教会までたどりつけない可能性だってあります。

そして実際、僕はなんとその日曜日に持病の腰痛が出てしまって、教会にいけなかったんです。「誓わなくてよかったー」と思いました。誓っていたら、その誓いを守れなかったことの責任は神様が負わなければならず「神様の顔に泥をぬってしまう」ところでした。

それにもし、誰かに勝手に連帯保証人にされたら、皆さん嫌ですよね。神様だってそうなんです。みだりに誓うということは、勝手に神様を連帯保証人にしてしまうということです。だからあんまりよくないんです。

と、いうわけで実はクリスチャンって、あんまり誓わないんです。一般的な生活で誓うのは信仰告白をして洗礼を受ける時と、結婚する時くらいです。どちらも人生の一大事です。期日前投票で誓うのとはわけが違います。ちょっと一般的な生活から離れれば、裁判で証言をするときとか、大事な任務に就任する時とかです。アメリカの大統領が就任のときに聖書に手を置いて誓いを立てるシーンを見たことがある方は多いかもしれません。これだってもちろん、人生の一大事ですよね。

「君の人生の一大事なら、私が連帯保証人になろう」と、神様が言ってくださる、そういうシチュエーションであればクリスチャンも誓います。

・・・と、別に「宣誓書」を求める国や自治体に文句を言う気はないんです。今回、言いたかったのは「自分が確実に約束できることって、少ないな」ということです。まして「神様を人質にされて誓えることは少ないな」ということです。

日曜日に礼拝にいくことすら、腰痛一つでままなりません。もっと簡単なこと、たとえば「今日、ランチを食べること」だって、「本当に食べますか?絶対にですね?」と言われたらちょっと不安になりませんか。昼休みに急ぎの電話なんかが来たら食べられないかもしれません。

この原稿だって「絶対に〆切に遅れませんね?絶対ですよ?」と言われたら、自信がなくなってきます。まぁ、この原稿はそろそろ書き終わるところなのでおそらく大丈夫だろうとは思いますが。最後の「主にありて。」を書くまで、このパソコンがフリーズしたりしませんように。

それではまたいずれ。MARO でした。

主にありて。

 






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