島原の乱は「宗教戦争」ではなかった

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◆1638年4月12日 島原の乱終結

島原の乱は天草四郎時貞を総大将としたキリシタンの、徳川幕府に対する反乱として有名ですが、実際は単純な宗教的な反乱ではなく、民に対する重税への不満からの一揆という側面もあったようで、この反乱には多くのキリシタン以外の人たちも加わっていました。また、土着の領主や浪人などの武士階級も加わっており、非常に複雑な構図の戦いであったと言えます。この反乱が「キリシタンの反乱」として有名になったのは、後に徳川幕府が鎖国の理由づけとしてこの反乱を口実にしたからだと言われています。

ただ、この地域はもともとキリシタン大名の有馬氏や小西氏の領地であったので、キリシタンが非常に多かったのは確かなことです。有馬氏に代わって、1614年にこの地の領主となった松倉重政が、民に重税を課し、また激しいキリシタン弾圧を行ったことから摩擦が生じ始め、1637年12月11日に戦が始まりました。反乱軍は37000人と、幕府軍125800人に対して圧倒的に劣勢でしたが、4ヶ月もの間、善戦しました。しかし、4月12日に拠点であった原城が陥落し、全員が戦死、あるいは処刑で命を落としました。ただし、上記のように単純に「信仰を守る」ための戦いでなかったためか、彼らは殉教者としては数えられていません。

この1年半後、江戸幕府は鎖国を開始し、以降戊辰戦争までの230年にわたって大きな戦争は起こりませんでした。戊辰戦争は大政奉還より後のことですから、この島原の乱が江戸幕府にとっての「最後の戦」ということになりました。

それではまた明日。

 






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