大阪の陣でキリシタンたちが豊臣方についた理由

おはようございます。
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◆1615年6月4日(元和元年5月8日) 大阪夏の陣の終結

大坂夏の陣は徳川家と豊臣家の最終決戦とも言える戦で、この日に総大将の豊臣秀頼が切腹に追い込まれて豊臣家が滅亡、これにより徳川家の天下がゆるぎないものとなりました。

戦場となった大阪城にはたくさんのキリシタンと宣教師が籠城していました。これは徳川家よりも豊臣家の方がキリシタンに対して比較的融和的だったからだと言われていますが、だからと言って豊臣家も決してキリシタンに甘かったわけではなく、「徳川家よりはまだまし」程度のものだったと考えられています。(諸説あり)しかし、キリシタンたちの祈りによっても豊臣家の劣勢は覆らず、多くが殉教することとなりました。

またこの時に豊臣方て戦った明石全登はキリシタン大名でした。関ヶ原の戦いで西軍についたために八丈島に流されましたが、同じくキリシタン大名であった黒田如水の庇護をうけて再び頭角を表したと言われています(これまた諸説あり)。

いずれにしても多くのキリシタンが豊臣方についたのは「徳川の世になれば100%キリシタンは弾圧される。豊臣の世になってもキリシタン弾圧はおそらくされるだろうけれども、もしかしたらされない可能性もある」くらいの動機だったようです。一応、秀頼さんは「自分たちが勝ったらキリシタンを認める」とは言ったようですが、あまり信用されてはいなかったようです。

それではまた明日。

 






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