2020年1月15日「御心が行われますように」

御心が行われますように、天におけるように地の上にも(マタイ6:10)

初代教会は信徒たちを「主の弟子」「主の僕(しもべ)」と呼んだ。「弟子」や「僕」という自己理解に、主イエスを信じる者の立場がよく言い表されている。主イエスを信じるとは、自分の願いは置いて主人の命令に従う僕のように、主の御心を行う僕となることである。神の大きな恵みによって神の民とされた信徒は、神の恵みに応え、神の御心が行われることを願って神に仕える。

バプテスト教会のように「会衆主義」(ほかに監督主義、長老主義がある)の教会は、教会の宣教の働きを信徒たち全員で協議して決めるが、それは決して自分たちの願いを実現するためではない。神の民として共に神の御心を行うためである。それゆえに、常に神の言葉に聞き、神の御心を知ることが、神の民である前提である。

主イエスは「私が天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、私をお遣わしになった方の御心を行うためである」(ヨハネ6:38)と言われた。その方が十字架の死を前にして、「父よ、できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください。しかし、私の望むようにではなく、御心のままに」(マタイ26:39)と祈った時、苦しみもだえ、汗が血の滴(したた)るように地面に落ちた。「私と父とは一つである」(ヨハネ10:30)と言われた主イエスが、父の御心を行うために、血の滴るような汗を流して祈られたのである。ましてや私たちは、祈りなしに神の御心を行うことはできない。主イエスが「祈れ」と言って、今日の聖句を教えた理由がここにある。これは、「神が地の上に御心を行ってください」という祈りであるとともに、「私たちが御心を行えるよう助けてください」という祈りでもある。

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