3月25日「神は真実な方である」

人はすべて偽り者であるとしても、神は真実な方であるとすべきです。(ローマの信徒への手紙3章4節)

人間が神を信じない理由として、神の真実が分からないということがある。「神は人間の罪を裁くというが、罪を犯すように造った神こそ責任がある」、「私をこんな苦しい目に遭わせる神は真実な神ではない」と。神が自分の思い通りの神なら良いが、思い通りの神でないと、神は真実でないと言って神への不信を表わすのは、人間の常である。

これに対して、パウロは今日の聖句を語る。パウロがこのように言えたのは、主イエスの十字架に神の真実が啓示されているのを信じたからである。十字架にかけられる前夜、主は弟子たちに杯をまわして、「これは、罪が赦(ゆる)されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」(マタイ26・28)と言った。契約とは、神が旧約の預言者を通して語り、約束した「新しい契約」を指す(エレミヤ31・31〜34)。神は人の罪を赦し、新しい人間を創造するという新しい契約を、御子イエスの死をもって果された。ここに神の真実がある。十字架に象徴されるように、この世に神の真実があるのかと思われる不条理の中で、神はご自身の真実を啓示された。

キリスト教の信仰は、神の真実を信じる信仰である。私たちは真実を守り通せない弱い人間である。しかし、私たちは不真実な人間であっても、神は真実である。神の真実は愛と結びついているので、私たちは神に依り頼むことができる。「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(Iコリン10・13)。

 






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