2020年11月25日「わたしは復活であり、命である」

わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。(ヨハネによる福音書11章25〜26節)

福音書はラザロの墓に向かう主イエスが「心に(原文は、霊において)憤りを覚えられた」と記す。主イエスは、人間を絶望と虚無に陥れる死に対して憤り、死と戦われた。同時に、主はラザロの死を悲しむ姉妹のために涙を流された。主イエスの憤りと同情、これが主の業の原動力であった。

主イエスが墓の中にいるラザロに向かって「出て来なさい」と言うと、彼はよみがえって出て来た。ラザロはよみがえったとはいえ、その命はやがてまた死ぬ地上の命にすぎない。主イエスによるラザロの復活は、今日の聖句の「死んでも生きる」命の「しるし」である。「死んでも生きる」命とは、死後の命のことではない。マルタが「終わりの日に復活することは存じています」と言うと、主イエスは「復活であり命であるわたしを信じるか」と問い返した。マルタに、死の復活ではなく、主イエスご自身を信じることを求めたのである。

「復活であり、命である」主イエスを信じることによって、私たちは死が持つ絶望と虚無の力に勝利する。もはや死が私たちを主イエスの愛から引き離すことはないからである。主の愛は罪深き者をも手放さず、赦(ゆる)し、立ち上がらせてくださる神の愛である。主イエスにおける神の愛を確信する時、私たちは私たちを悲しみや絶望に落としこむ世の諸力に負けないで生きてゆくことができる。私たちの悲しみに同情してくださる十字架の主イエス、死と戦い、勝利された復活の主イエスを信じることが「死んでも生きる」命である。

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