12月20日「見ないのに信じる人は、幸い」

わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。(ヨハネによる福音書20章29節)

主イエスに崇高な人格を認めても、その復活は受け入れ難いという人は多い。復活はキリスト教の躓(つまず)きである。

トマスは、「わたしたちは主を見た」と言う仲間の弟子たちの言葉に、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と反論した。疑うトマスに復活の主が現れて、「あなたの指をここに当てて、わたしの子を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(27節)と言った。トマスは主イエスの慈愛に満ちた言葉を聞いて、「わたしの主、わたしの神よ」とひれ伏すと、主は今日の聖句を語った。

この世界には、見ただけでは分からない、信じなければ分からないものがある。人の愛や人格がそれである。神は見える形を持った存在ではなく、見えない人格である。神は御子(みこ)イエスを通して、慈愛に満ちたその人格を現されたのである。それゆえ、復活の主にふさわしいことは「見ないで信じる」ことである。「肝心なことは目ではみえないのさ。心で見なくっちゃ、肝心なモノは見えないんだよ」(サン・テグジュペリ『星の王子さま』)。

トマスは自分に語りかける主イエスの言葉によって、慈しみ深い神の人格に触れた。私たちもまた、主イエスの言葉を聞くことによって、神の人格に触れる。信仰とは、自分に語りかける主イエスの言葉を聞くことである。そこに、慈愛に満ちた神がおられる。

 






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