クリスチャニティー・トゥデイ

【CHRISTIANITY TODAY】N・T・ライトへのインタビュー「パンデミックの悲しみを過ぎ越し希望を」(対訳)

 

「タイム」誌に掲載された記事でN・T・ライト教授は、新型コロナ・ウイルスのパンデミックの中で生きているクリスチャンの集団的不安について、「私たちの信仰はその答えにはならない」と書いた。少なくとも、私たちが望むような答えではないという。私たちがその理由を求めるのは、合理主義に依存しているからだと同氏は主張する。

「合理主義者(キリスト教的合理主義者を含む)は説明を求め、ロマンティスト(キリスト教的ロマンティストを含む)は安心感を望む」

しかし、神が説明も安心感も与えないのであれば、私たちはどうすればいいのだろうか。「私たちには嘆くことができる」とライト氏は言う。

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In a timely article last month, professor N. T. Wright addressed our collective anxiety as Christians living during the coronavirus pandemic by assuring us our faith offers no answers. At least not the answers we want. He asserts that our quest for reasons results from Christianity’s faulty reliance on rationalism. “Rationalists (including Christian rationalists) want explanations; Romantics (including Christian romantics) want to be given a sigh of relief.” But what do we do when God gives us neither explanations nor relief? Wright says we lament.

T・S・エリオットの長編詩「4つの四重奏」の第2部「イースト・コーカー」から引用しつつ(「私の魂に言う。静かにして、望みなく待つのだ。希望は、間違ったことへの希望だから。愛なく待つのだ)、ライト氏は「間違ったことへの希望」について語る。

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Citing T. S. Eliot (in “East Coker,” the second of Eliot’s Four Quartets), Wright speaks about “hoping for the wrong thing.”

N・T・ライト(写真:Gareth Saunders)

──希望についてどう考えればいいのでしょうか。

ライト:重要なのは、「神に私たちの心を整えてもらう」ことよりも、あまりにも早く「私たちの望みをかなえてもらう」よう望んでしまってはいないかということです。

私が昔から祈ってきた古い祈りに、「あなた(神)が愛せよと命じられるものを愛し、あなたが約束するものを望む者とさせてください」と願う文言があります。一方、私たちは、自分が愛していることを愛するよう神が命じ、自分が望んでいることを神が約束してくれているかのように考えることがあまりにも多いのです。そうした価値観を現代のクリスチャンも持っています。

エリオットは(十字架の聖ヨハネのように)、そのような考えに警鐘を鳴らし、私たちが本当に何を望むべきかを知るためには、神の新たな導きを待たなければならないのではないかと伝えています。

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Wright: The point is that we all too quickly hope for “our heart’s desire” without thinking that perhaps we need to let God do quite a job of reordering our hearts. In my tradition we have an old prayer which asks that God would so enable us “to love what you command, and desire what you promise.” Far too much of modernity, including would-be Christian modernity, is wanting God to command what we already love, and promise what we already desire. Eliot, (echoing St. John of the Cross) is challenging that and suggesting we might have to wait on God’s fresh leading before we know what we should really be hoping for.

──私はこの1年で、個人的な深い悲しみを経験しました。そして悲しみが、より捉えにくく神秘的ですらある深い信仰への入り口になるということを目にしてきました。これは、一部のキリスト教的伝統が教えてきたような「不可知」の一種なのでしょうか。

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I’ve experienced deep personal sorrow myself this past year, and I’ve seen lament and grief as gateways to a deeper, though more ambiguous and even mysterious, faith. Is this a kind of “unknowing”, as some Christian traditions would teach?

ライト:嘆きと悲しみは、私たちの人格にさまざまな穴を開けます。そこから見えてくる神の神秘的側面は、ほかの方法では見ることのできない類(たぐい)のものなのかもしれません。

しかし、この「不可知」を切り口に、私たちの心を空にしようとする一種の哲学に流されてしまうことは避けるべきだと思います。心が空になってしまったら、そこには別の種類のものが流れ込むだけです。このことについても、ローマ8章は重要な意味を持ちます。

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Wright: Lament and grief open all sorts of doorways into parts of our personalities, and I dare say aspects of God’s mystery, which we gain by perhaps no other means. But I would not let this “unknowing” spill over into a kind of mind-emptying philosophy; any emptying which takes place would then be the prelude to a different kind of filling. Again, Romans 8 would be important here.

私もライト教授と同じ考えだ。「キリスト・イエスにある者は罪に定められることはありません」(1節)から始まる8章は、罪と律法、肉と霊、生と死など、緊張関係にある多くの関係性を解きほぐしていく。

聖霊は、「神の子」という私たちの真のアイデンティティーについて保証しているが、それでも子どものような(真っすぐな)信仰を持つことは簡単ではない。復活するためには、イエス、そして彼に従うすべての人には、十字架という犠牲が必要とされた(「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい」マルコ8:34)。私たちの魂もまた、苦しみを受ける時に最も強く鍛えられ、意味深いものになる。

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I agree with Professor Wright. The eighth chapter of Romans is majestic. It leads off with “no condemnation for those are in Christ Jesus” (v.1), and proceeds to untangle myriad tensions: sin and law, flesh and spirit, life and death. The Holy Spirit assures our true identity as God’s children, and yet childlike faith still isn’t easy. Resurrection demands crucifixion, for Jesus and all who follow him (Mark 8:34). Our souls are forged most intensely and meaningfully by suffering. It’s just how it works.

神に贖(あがな)われた子どもであるにもかかわらず、私たちはまだ「本来の姿」になることはできていない。恵みによって救われながらも、なお私たちは恵みを必要としている。復活は起こったが、それはまだ完了していない。その間、被造物はうめき声を上げ、子を産む苦しみに耐える妊婦のような熱を帯びつつ、ただひたすら待っている(ローマ8:22)。

しかし、生まれた赤ん坊は息を吸い、命を手にし、(人々に)生きがいと喜びをもたらす。その出産が困難なものであったなら、なおさらだ。虚(むな)しさとパンデミックにさらされているすべての被造物は、「滅びへの隷属から解放されて、神の子どもたちの栄光の自由に入るという希望」を持っている(21節)。どんなに状況が悪くなったとしても、それは後に訪れる良いこととは比べものにならない。これが私たちのイースターに抱く希望と喜びだ。

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Though redeemed children of God, we’re not yet who we are. Saved by grace, we still need grace. Resurrection has started, it’s just not yet completed. Creation groans in the meantime, waiting with eager longing like a mother in labor eager for her child to be born (Rom. 8:22). Her new baby takes a breath and finds life and brings life and joy—even more so if the delivery was difficult. The hope for all creation, subjected to futility and pandemics, is set to be freed from bondage and decay, born again, so to speak, “into the freedom and glory of the children of God” (v. 21). No matter how bad it gets, it’s nothing compared to the good that will be. This is our Easter hope and joy.

今の状況がやがてどのような事態へとつながるのかは神のみぞ知ることだが、聖書は、死と滅びから解放された「新しい天と新しい地」(黙示録21:1)、すべてを照らす神の栄光(同22:5)、そして私たちに約束された新しい体(1コリン15:44)について語っている。私たちの信仰は、理解を超えた現実に向けられているのだ。その信仰は、体の安全や他者からの評判、成功と失敗、健康など、私たちの心を覆う一時的な心配事よりも大きなものだ。

生まれた時から私たちには、自らの利益を超えて、より大きな目的に自らを献げる能力が与えられている。日常生活の中で、「そのような自己中心的な生き方がこの世のすべてではない」と私たちは気づかされるのだ。「福音のために自分の命を失う者は、それを救うのである」とイエスは言われた(マルコ8:35)。

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How this all comes about in the end, God only knows. The Bible speaks to a new heaven and earth (Rev. 21:1), freed from death and decay, and a universe lit up by God’s glory (Rev. 22:5). We’re promised new kinds of bodies too (1 Cor. 15:44). Our faith aspires to realities beyond comprehension, larger than the temporal concerns over security and reputation and success and failure and even health that otherwise dominate our thoughts. From birth, we’ve been wired with a capacity to transcend self-interest and lose ourselves to greater purposes. In the midst of ordinary day-to-day living, we’re beset by the realization that this cannot be all there is to life. Jesus said only by losing your self can you find your real self (Mark 8:35).

あなたが(福音のために)命を失うというのは、あなたが自らの十字架を背負う時だ。復活には十字架が必要とされる。それが嘆きをもたらす。

パウロは肉体的な意味でも、形而上学的な意味でも、人の罪が多くの悪の根源だと訴える。あらゆる関係性の破壊、信仰のつまずき、嘘(うそ)、不忠実、殺人、盗難、傷つけること、他者に対する抑圧と暴力行為のすべてだ。神はそれらのことを嘆き悲しんでおられる。

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Losing your self happens when you take up your cross. Resurrection demands crucifixion. This itself is cause for lament. Paul indicts human sin as the deadly cause and effect of so much evil, physically and metaphysically. Every relational break and breach of faith, every lie and infidelity and murder and theft and hurt and act of oppression and violence against others. Wright describes God as being “grieved to his heart.”

──そうした神の嘆きは、どのようにしてその解決を見いだすのでしょうか。

ライト:神が「地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた」という場面(創世記6:6)を私は考えていました。また、(三位一体の神学を強く示唆する)友人ラザロの墓とゲツセマネにおけるイエスの悲しみ、そして霊のうめき(ローマ8:26)のことも。深読みをすれば、これらすべてが十字架と復活へと至り、そこから流れ出ると新約聖書は述べているように思えます。「癒やし」が見えてくるのは、そのことが理解できてからではないでしょうか。

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Wright: I was thinking of God lamenting that he had made humans, in Genesis 6.6; and then – granted a strong Trinitarian theology of course – the grief of Jesus both at his friend’s grave and in Gethsemane, and the ‘groaning’ of the Spirit in Romans 8:22. The New Testament seems to be saying, at quite a deep level, that these all lead up to, and then flow away from, the cross and resurrection. Only at that point does the healing come into view.

確かに、「古いものは過ぎ去り、まさに新しいものが生じた」(2コリント5:17)と教えているように、キリストにあって共に十字架につけられた人は誰でも、すでにキリストにあって新しい被造物となる。隣人を愛するとき、自分のことを傷つけた人々を赦(ゆる)すとき、地球環境や貧困層、難民、未亡人や孤児を守るとき、また真実を語り、正しい行いをし、平和をつくり、神への生きた献げ物として生きるとき(ローマ12:1)、私たちは自らの「本当のアイデンティティー」を生きる者となるのだ。

私たちが弱さのためにそれらのことにつまずくのであれば、私たちは悔い改め、聖霊の吹く風の中心で生まれ変わりを経験する。そして、その経験や、キリストにおける体と心の復活を私たちは証しすることができるのだ。

私たちはそういった生まれ変わりを幾度も繰り返し、やがて来るべき日には、生き生きとした自由な被造物につくり変えられた者として完全に明らかにされる。私たちはそのことを望むのだ。

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Indeed, as, the New Testament teaches, anyone who is crucified in Christ is a new creation already in Christ, “the old has gone, the new is here” (2 Cor. 5:17). We live out our true identity in those moments when we do love our neighbors, when we do forgive those who wrong us, when we do care for the earth and the poor and the refugee and the widow and orphan, when we speak truth and make peace and do right and worship the Lord as living sacrifices to God (Rom. 12:1). And when we fail because of our weakness, we can repent and bear witness to a true transformation of heart, to the deep breath of the Spirit and the resurrection of our bodies and all things made new in Christ, born again yet again until that day when we are fully revealed as we hope, made new and alive in a creation finally set free.

N・T・ライトは、セント・アンドリュース大学の新約学と初期キリスト教の教授であり、オックスフォード大学ウィクリフホールの上級研究員。『新約聖書とその世界』を含む80冊以上の本を著している。ダニエル・ハレルは「クリスチャニティー・トゥデイ」の編集長。

本記事は「クリスチャニティー・トゥデイ」(米国)より翻訳、転載しました。翻訳にあたって、多少の省略をしています。

出典URL:https://www.christianitytoday.com/ct/2020/april-web-only/nt-wright-we-mourned-our-alleluias-on-easter.html

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