11月に来日する教皇フランシスコはこんな人 上智大学教授のアイダル神父

 

「教皇フランシスコ来日の喜びと展望」と題する講演会(主催:カトリック麹町・聖イグナチオ教会・真和会)が聖イグナチオ教会主聖堂(東京都千代田区)で2日、開催された。教皇フランシスコから直接指導を受けたホアン・アイダル神父(上智大学神学部教授、SJハウス院長)の話に延べ430人が耳を傾けた。

ホアン・アイダル神父

アイダル神父は1965年、アルゼンチン生まれ。83年にイエズス会に入会し、96年、上智大学神学部神学科を卒業するとともに、聖イグナチオ教会で叙階された。98年に上智大学神学研究科を修了し、2002年にスペインのコミリアス大学哲学研究科で博士号(哲学)を取得している。教皇フランシスコもアルゼンチン出身で、同国のサン・ミゲル神学校でアイダル神父は、現在の教皇(当時はホルヘ・マリオ・ベルゴリオ神父)から4年間、指導を受けた。

最初に語られたのは、教皇のリーダーシップにについて。

「トランプ米大統領などは『ハードなリーダーシップ』、教皇は『ソフトなリーダーシップ』とよく言われますが、その言い方にはあまり賛成できません。この世のリーダーと教皇の間の違いは、それよりも深いと思います。それは、福音の価値観に基づいたリーダーシップと、この世の価値観に基づいたリーダーシップと言っていいかもしれません。教皇のリーダーシップは、福音の力で世界が変わることを信じ、人々に希望を与えるものです」

そのように話した後、神学校時代、教皇の部屋に飾られていた「偶像を破壊するアブラハム(伝承)」の絵が、「偶像は偶像を壊せない」ことを意味していたことを紹介。教皇が固く信じていることは、「世界は世界の手段では変わらず、神様の方法を用いる必要がある」ことだと述べた。

アイダル神父の話に耳を傾ける参加者。

続いて、教皇の言葉によく出てくる「いつくしみ」について。いつくしみは愛の特徴を表し、そこには二つの意味があるという。一つは「赦(ゆる)し」。教皇が繰り返し唱える赦しとは、人に新しいチャンスを与えることだ。「人にされたことが忘れられず、それにいつまでも心を痛めているなら、赦したことにはならない。赦すとは、一人ひとりの心の中で働いている神様がその人をよくすると信じることです」

そして、いつくしみのもう一つの意味は「リミットを超えた愛」だという。

「『私たちは目の前の人を御聖体のように大切にしなければいけない』と教皇は言われました。教皇のいちばんの魅力は、たとえ限界を超えることであっても、何よりも目の前の一人の人を助けるところです。

イエス様は、人を赦しながら、人を治しながら、人を大切にしながら、世界を変えていきました。教皇はそれを実践しています。何か大きな出来事で世界を変えようとはしていません。だからこそ人々に希望を与えるのです」

また、サッカー好きとしても知られる教皇だが、最も尊敬するポジションがゴールキーパーであることも明かした。その理由は、他のポジションの選手と違い、ゴールキーパーは自分でボールを選ぶことができず、来たボールを受け止めるだけだからだ。それはイエス様を思い起こさせ、近づいてきた人を大切にするというクリスチャンの姿でもある。

今のアイダル神父を支えているは、神学生だった時に教皇から教えられた言葉、「善と悪は同じではない。善は悪より強い」ということだ。そこには二つの意味があるという。

「一つは、人間は善をするために創(つく)られたということです。一人の善い人は、100人の悪い人たちより力があります。もう一つは、神様が善い人たちの側に立っていることです。そうであれば、その人は悪に負けることはありません。私はこの二つのことを信じています。だからこそ、赦しで世界が変わり、目の前の人を助けることで世界が変わることを信じられるのです。これが間違えているなら、イエス様が間違えていることになります」

さらに、教皇がよく使う言葉に「廃棄の文化」と「出会いの文化」があるという。価値あるものは便利なものという考えは、人間関係を狂わす力を持っており、その対極に「出会い」があるという。

「神学生だった時の私は、月曜から金曜までは勉強、土日はスラムで働くという日々でした。教皇から、『あなたは月曜から金曜までは神学校の教師から学ぶが、週末は貧しい人から学んでいる』と言われました。あるとき、『何を貧しい人から学ぶのですか』と聞くと、『何のために勉強するかを学ぶのです』という答えが返ってきました。貧しい人を助けるために、貧しい人から学ぶ。そういう考え方をされていたのです」

教皇が貧しい人を大切にしなければいけないとする理由は二つ。一つは、イエス様がそうしたから。もう一つは、その人たちが困っているのは私たち一人ひとりの責任だからだ。

「人を裁く代わりに、自分が責任を取るということです。物乞いをしている人がいれば『働きたくないからだ』、病気の人がいれば『煙草を吸っていたせいだ』と、私たちはしばしばその人のせいにします。しかし教皇が言うのは、それはイエスの時代のファリサイ人の態度だと。人の心を覗(のぞ)くことはできませんが、ただ一つ確かなことは、その人のことは私に責任があるということです。困っている人を見れば、まず自分の責任。世の中の戦争はどこに原因があるか分からないけれど、私に責任があることは間違いないのです。人間関係を複雑にしているのは、人のせいにすることなのです」

来場したカトリック信徒の女性(60代)は、「神学校時代の教皇様の話はあまり聞く機会がないので、とてもよかった」と感想を語った。

 






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