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フランスから見た教皇フランシスコ来日 教会が出向くのは、忘れられた人々がいるから 栗本一紀

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第266代ローマ教皇フランシスコは、23日から26日までの間、日本に滞在した。おもな訪問地は東京、長崎、広島。教皇の来日は、1981年の第264代教皇ヨハネ・パウロ2世以来2度目で、38年ぶりだった。私の住むフランスで、この訪問をメディアがどのように伝えたかを書きたい。

新聞を売るパリのキオスク(写真:Vania Teofilo)

日本ではここのところ、W杯ラグビー、徳仁(なるひと)天皇の即位式、そして来年は東京オリンピック・パラリンピック開催と、国際ニュースが注目のイベントが続く。天皇陛下の即位をお祝いする「即位礼正殿の儀」と「祝賀御列の儀」は別として、ほかのイベントは巨大なスポーツ・ビジネスがらみの案件だからか、それらに大騒ぎし、一喜一憂する日本国民を、フランスのメディアは冷静に観察して分析する論調が多い。しかし、教皇フランシスコの訪日はもっと違う別の大きな意味を持っていたと伝えた。

日本のカトリック人口はおよそ0・35%(カトリック信徒は世界で約13億人いるが、日本には約44万人しかいない。韓国では、カトリック人口は全人口の10・9%を占めており、しかも増加傾向にある)。そのようなカトリック・マイノリティーの日本を、なぜ教皇は訪問先に選んだか。答えは簡単だ。フランスのどの新聞やテレビも指摘していたように、その理由は「長崎・広島」、そして「福島」にあった。

フランスの夕刊紙「ル・モンド」(フランス語で「世界」)

日本訪問の2日目、イエズス会出身のローマ教皇フランシスコは、この2年間に教皇自身が核問題に関するローマ教皇庁の教義をなぜ変えたかを説明する強く短いメッセージを出した。それまでは、バチカンが核兵器の破壊的な威力を嘆き、核保有国に協調的な軍縮を要求したとしても、歴代のローマ教皇は核の抑止力を認める発言をしてきた。そして1945年以来、核兵器の所有は、軍縮への道を歩み始めることを条件として一時的に許容してきた。

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Au premier jour de sa visite au Japon, le pontife jésuite y a prononcé un message, bref et dense, qui explicite les raisons qui l’ont conduit, depuis deux ans, à changer la doctrine du Saint-Siège sur cette question. Auparavant, en effet, s’ils déploraient les capacités dévastatrices de l’arme nucléaire et appelaient à un désarmement concerté, les papes, depuis 1945, avaient admis la dissuasion, et donc la possession d’armement nucléaire, comme un pis-aller, à condition qu’elle soit une étape sur la voie du désarmement.

そしてこの日、執拗(しつよう)に降りしきる雨の長崎・爆心地公園でローマ教皇フランシスコは、「核兵器から解放された平和な世界を築く時が来た。核兵器の保有は、今日の国際的または国家間の安全保障への脅威から私たちを守ってくれるものではない」とはっきりと地球上のリーダーたちに向けて語りかけた。(ル・モンド電子版)

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Sous une pluie tenace, à l’épicentre même de l’explosion, il s’est directement adressé aux dirigeants de la planète pour leur dire que le temps était venu de renoncer aux armes nucléaires et leur demander de construire une paix qui ne repose pas sur la possession de tels armements et la menace de s’en servir pour dissuader d’éventuels agresseurs.

11月25日、東京での福島第一原発事故の被災者との面談で、教皇フランシスコは、日本の司教たちが原子力の継続的な使用に対する懸念を指摘し、原子力発電所の廃止を求めたことに言及し、「私たちはこの地球の一部、環境の一部」と話し、「天然資源の使用、特に将来のエネルギー源に関して勇気ある決断をする」ことを後押しするようにと述べた。

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C’est en rencontrant des victimes de la catastrophe de Fukushima, à Tokyo, lundi 25 novembre que le pape François a appuyé la demande des évêques catholiques du Japon d’arrêter le programme nucléaire de leur pays. «Nous faisons partie de cette terre», a expliqué le Pape. «Nous faisons partie de l’environnement» et «il y a des décisions courageuses et importantes concernant les futures sources d’énergie».

そして「私たちには、決して利己的な決断をすることはできないし、未来の世代に対して大きな責任があることに気づかなければならない」と呼びかけた。(ル・フィガロ電子版)

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Évoquant «nous devons nous rendre compte que nous ne pouvons pas prendre des décisions purement égoïstes, et que nous avons une grande responsabilité envers les générations futures.»

今回の訪問で教皇フランシスコは、24日に長崎の爆心地公園でまず平和のメッセージを発信した。その後、西坂公園・殉教の記念碑にて日本26聖人殉教者のための祈りをささげ、午後には長崎県営野球場(ビッグNスタジアム)でミサを執り行った。そののち空路で広島に移動し、原爆ドームのある平和記念公園で平和集会を開いたあと、その日のうちに東京に戻った。東京では、東日本大震災の被災者と面会し、天皇陛下との会見や安倍晋三首相との会談がある。そして夕方には、東京ドームで5万人の信者を前にミサを司式し、説教が行われた。明くる日、上智大学のクルトゥルハイム礼拝堂で、イエズス会員らと私的なミサをささげたあと、帰国の途についた。

キリスト教人口の増加を特に期待するわけではないのに、バチカンが日本を重視するのには、国連で採択された「核兵器禁止条約」(日本は不参加)を2017年9月にバチカンがいち早く批准したことに原因がある。同年11月にバチカンで開かれた国際会議でも教皇フランシスコは、「核兵器は、使用するのと同様に保有することも断固として非難されるべきだ」との立場を改めて示した。

現在も、米国、ロシア、中国など9カ国が1万4000発弱の核弾頭を保有している。また、米国とロシアとの間の中距離核戦力全廃条約(INF条約。1987年にレーガン米大統領とソ連のゴルバチョフ書記長が署名し、冷戦が終わるきっかけにもなった)が今年8月2日に失効し、両国は、欧州や極東で中距離ミサイルの配備を進めている。INF条約に加盟していない中国を含めて、新たな軍拡競争に発展する可能性が高い。

そんな時代背景にあって、「核兵器を世の中からなくし、平和な世界を築く」という教皇フランシスコの強い反戦への思いが今回の長崎・広島訪問には込められていた。

ヨハネ・パウロ2世(写真:Rob Croes)

東西冷戦期の1981年2月に広島と長崎を訪れた教皇ヨハネ・パウロ2世は、広島市の平和記念公園の原爆死没者慰霊碑前で核戦争反対へのメッセージを出した。しかし、長崎訪問では爆心地は訪れなかった。加えて、その翌年の国連総会でヨハネ・パウロ2世は、核抑止力を限定的に認める発言をしており、明確な核兵器全廃のアピールには至らなかった。

そのような中、今回、教皇フランシスコは降りしきる雨のもと、長崎の爆心地公園に集まった被爆者や子ども、信徒ら約1000人を前に、平和の記念碑に献花し、原爆犠牲者に黙とうをささげた後、以下のようなスピーチを行った。

「この場所で私たちが強く自覚するのは、人間がどれほどの痛みと恐怖をもたらしうる存在であるかということです。被爆した十字架とマリア像が、長崎の教会で見いだされました。これらは、犠牲者、そしてその家族の筆舌に尽くしがたい苦しみを改めて思い起こさせます。

核兵器から解放された平和な世界こそ、数えきれない人々が熱望するものです。この願いを実現するには、すべての人が理想の実現に向けて取り組む必要があるのです」

その上で、核兵器の保有に強く反対する姿勢を改めて示し、こう述べた。

「人々が心の中で最も深く望んでいることの一つは、平和と安定です。しかし、核兵器や大量破壊兵器を保有していては、この望みに応えることはできません。それどころか、私たちを絶えず試練にさらすことになるのです。

人間の心の中にある最も深い願いの一つは、平和と安定への希求です。核兵器やその他の大量破壊兵器の保有は、この願いをかなえる上で最適な答えとは言えません。それどころか、この思いを常に試練にさらすように見えます」

これまでにも教皇フランシスコは、広島と長崎の被爆の歴史から「人類は何も学んでいない」と述べてきた。そして、2017年末には、被爆地の長崎で撮られた1枚の写真を世界に広めるよう呼びかけた。この写真は、被爆後の長崎で米国の従軍カメラマンが撮影したモノクロ写真だった。この日も教皇のそばには、この「焼き場に立つ少年」の写真パネルが置かれていた。

フランスの各メディアは、今回の教皇フランシスコ訪日を評価し、たたえた上で、さらに実際の核保有国に行ってこのような核廃絶を訴えることが、真の「核なき世界」の実現には重要だと論じた。

ストラスブールのキオスク(写真:Photo Claude TRUONG-NGOC)

もう一つ、82歳の教皇フランシスコが日本、とりわけ長崎への訪問を切望していたのには、教皇の出身母体であるイエズス会との関係があった。

アルゼンチン生まれのフランシスコは2013年、アメリカ大陸出身者で初めて教皇の座についた(ヨーロッパ以外の出身者としては、8世紀以来、初めての教皇)。イエズス会出身者としても初の教皇だった。16世紀にイグナティウス・デ・ロヨラが創設したイエズス会といえば、日本ではフランシスコ・ザビエルの存在が知られている。ザビエルもイエズス会の創設メンバーの一人だった。1540年にパリで設立されたイエズス会は、ローマ教皇の認可を受けて49年にザビエルを派遣し、日本に初めてキリスト教を伝えた。

イエズス会神父としてアルゼンチンで働いていた頃の教皇フランシスコにとって、ザビエルが布教に訪れた日本という国は特別な場所だった。フランシスコ自身も若い頃から、宣教のために日本に訪れたいと考えていた。しかしそれは、健康状態など、さまざまな事情でかなわなかった。

ザビエルがインドで出会った日本人(鹿児島出身のヤジロウ)の手引きで来日したのが470年前。これは、ヨーロッパによる日本への最初の文明的接触ともなった。今回、フランシスコが日本訪問の前にタイを訪れたのは、タイでカトリック教会が正式に設立されてから今年で350年を迎えるのが理由だが、日本ではそれより1世紀以上も早く、ザビエルらによってキリスト教の宣教が開始された。その後、1582年には、遣欧少年使節団が長崎港から出航し、85年、ローマで教皇グレゴリウス13世に謁見する。これは、日本人がヨーロッパに渡った最も早い歴史的事例だった。

しかし、その後の日本におけるカトリック信者の運命には受難が続いた。豊臣秀吉の禁教令に始まり、江戸時代となった1613年には、徳川家康により禁教令が全国に敷かれた。長崎と京都にあった教会は破壊され、翌14年には修道会士やおもだったキリスト教徒がマカオやマニラに国外追放された。その後も、17~19世紀の江戸時代全般を通じて禁教令は続いた。そして、日本各地の信者の一部は潜伏キリシタンとなって、幕末に至るまで密かにキリスト教を維持し続けた。だが、時代が明治に移っても、長崎と天草地方で多くの潜伏キリシタンが摘発・弾圧され、西日本の各藩に流刑となり、拷問を受けて死んでいった。この悲劇は1873(明治6)年に禁教令が撤廃されるまで続いた。


1945年8月9日の原爆投下後の長崎のキノコ雲(写真:Charles Levy)

そして、近代となってもう一度、長崎はカトリック信者にとっての苦悩の地となる。太平洋戦争末期、米国は原爆の製造に成功し、戦争の早期終結を目的に、トルーマン大統領は広島市と長崎市に人類初の原爆投下を命じた。この結果、両市合わせて21万人の命が奪われた。長崎市は、隠れキリシタンの子孫らカトリック信者が最も多く居住する浦上地区を中心に7万3000人が犠牲となった。1万5000人のキリスト教徒のうち8000人以上が亡くなったといわれている。

教皇フランシスコは今回の訪日に先立ち、日本の人々に向けたビデオ・メッセージの中でこう語った。「核兵器の破壊力が人類の歴史に二度と解き放たれることがないように、皆さまと共に祈ります。核兵器の使用は、倫理に反します」

38年前の1981年に被爆地の広島・長崎を教皇として初めて訪問したヨハネ・パウロ2世に続いて、教皇フランシスコが再び被爆地を訪れた意味はとても大きい。世界中が、被爆地の一つ、長崎の地からの「核兵器廃絶」に向けたメッセージを発信する姿を心待ちにしていた。なかんずく、日本という国が憲法の第2章9条で「戦争の放棄」を規定し、平和主義を掲げている、世界でも稀(まれ)な国家であることの意義は深い。

ところで個人的な話になるが、教皇フランシスコの出身であるアルゼンチンと言えば、私自身、30年前に洗礼を受けたのがアルゼンチンのブエノスアイレス州サン・ミゲルの教会だった。その頃の私は、ブエノスアイレス市内の貧民街に一人通い、奉仕活動をしていた。当時、南米で話題となっていた「解放の神学」運動に感化されてということもあったが、貧しい人たちの生活に寄り添い、子どもたちと一緒に祈りをささげるのが好きだった。その時の私の活動を当時のアルゼンチンの日系新聞が取り上げた懐かしい記事が出てきたので、ここに掲載しておく。

「らぷらた報知」(1988年)

実は、教皇ヨハネ・パウロ2世がイエズス会を疎んじていたことはあまり知られていない。当時の中南米で過激なマルクス主義としてカテゴライズされていた「解放の神学」運動の中にイエズス会出身の司祭が少なからずいたからだ。それは、旧共産圏のポーランド出身であり、反左翼主義・反共産主義だった教皇にとっては致し方ない感情だったのだろう。

ヨハネ・パウロ2世の後継となったベネディクト16世(本名:ラッツィンガー)も、まだバチカンの教理省長官だった1984年、「解放の神学」運動に否定的な見方を示した『解放の神学のいくつかの側面に関する指針』(ラッツィンガー教書)を発表している。これらは、バチカンによる「解放の神学」への公式的見解となった。しかし、当時の教皇だったヨハネ・パウロ2世はその後、ラテン・アメリカを歴訪し、民衆の悲惨な現状を目の当たりにしたことで、帰国後の86年、「解放の神学」の正当性を認めることとなる。そして、中南米の貧困と抑圧の問題に対処する新しい手法として、ラテン・アメリカの「解放の神学」運動を評価するようになった。

「解放の神学」を提唱したグスタボ・グティエレス神父(写真:Mohan)

「教会が『出向いて』行かなくてはならないのは、世界には『忘れられた』人々が無数にいるからだ」と言ったのは教皇フランシスコだ。この「忘れられた人々と共に」というのは、貧民救済で有名な中世の聖人アッシジのフランシスコにちなんで教皇の名前を「フランシスコ」としたことにも共通している。教皇になった当初は、普段着の司祭服でローマの町へ出てホームレスなどにパンを配ったり施しをしたりしていたという。アルゼンチン時代の教皇フランシスコは、軍事独裁政権下の右派と左派の間で教会組織を維持するため、微妙な舵取りを買って出て、そこで卓越したバランス感覚とマネジメント能力を証明してみせた。その当時と同じく、現在も教皇は理想論だけでなく、現実的な考えのもと、バチカンの改革を進めている。

ラテン・アメリカの「解放の神学」が展開した思想と運動は、「眼前に広がる困窮した多くの無力の民衆を放ってはおけない」という信仰に基づいた良心から生まれた人道的営みだった。そして、それまで社会の周縁に置かれて虐げられていた人々にとって最も大きかったのは、「キリスト教が人々に何をなしうるか」という問題提起がなされたことだった。

その頃、若造だった私は、当時のこのような状況下のアルゼンチンにいて、カトリック神父と出会い、洗礼を施され、「神は父であり母であり」と教えられ、地上の自由の楽園、愛の国の実現を夢見ていたように思う。そして今もまた、教皇フランシスコが日本に降り立った姿を見て、平和と核廃絶の夢がいつかはこの地球上で実現されることを主に祈らずにはおれなかった。

栗本一紀(くりもと・かずのり)パリ在住、映像作家。1961年、大阪生まれ。80年代に南米アルゼンチンのカトリック教会で受洗。同時期、南米スラム街のドキュメンタリーなどを撮り始める。99年よりフランスを拠点にアフリカ・中東地域の取材。2011年の東日本大震災後は、原発問題などを扱ったドキュメンタリー映画を製作。 現在、事故から33年が経つチェルノブイリ原発をテーマにした映画を制作中。著書に『ジャーナリスト後藤健二──命のメッセージ』(2016年、法政大学出版局)がある。

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