【毎日連載・最終回】思い出の杉谷牧師(18)下田ひとみ

 

18 わしにもわからん

私は思い出していた。20年前、教会に行き始めた頃、私はどうしても神が愛であるということが信じられず、先生に訊ねたことがあった。その頃の先生の髪はまだ黒く艶々(つやつや)としており、私は世の中の不条理に怒りを覚えていた若い娘だった。
「神様が愛なら、聖書に書いてあるように本当に人間を愛しておられるなら、なぜ戦争が起こり、無意味に死ぬ人があり、障害者が生まれ、数えきれない世の中の悲惨というものがあるのですか」
私は真に答えが知りたいと思ってそんな質問をしたのではなかった。さまざまの本を読み、自分なりに考え、私はこのことに対する答えはないとついに確信し、同時に深く絶望していた。ただキリスト教では何と答えるのか、そのことが知りたかったのだ。
その時の私は先生の家の玄関に立って、挑むように先生を見上げていた。「ごめんください」と、がらがらと戸を開けて、出てきた先生にいきなりこんな質問を浴びせかけた私は、先生の眼にどう映っただろう。
先生は黒い眉毛を緊張の面持ちでまっすぐに伸ばし、何事か考えているようだった。
その時間は意外にも長くつづいた。
私は拍子抜けする思いだった。こんな質問にはお決まりの常套語がきちんと用意されていると思っていたからだ。
「それは……」
ついに先生は顔を上げた。
「わしにもわからん」
衝撃的な言葉だった。
じゃあ、この人はわからないことに半生を捧げ、牧師にまでなったというのだろうか。
私にとって真の意味での求道は、この時から始まったのだ。
先生は今、神のもとにいる。神と直接に顔と顔を合わせている今なら、先生はあの時の私の質問に答えることができるだろう。神の愛──その深遠を、今こそ先生は理解し、味わい、心ゆくまでその幸福に満たされているだろうから。
先生がこの地上から姿を消し、私は真実に悲しい。涙は心からわいてくる。でも、私もいつの日かそこに行く。別れは限られた間だけなのだ。

「迎え、まだ来んの?」
奥さんの声で私は我にかえった。
「ええ、でもきっともうすぐだと思います。それより奥さん」
私は奥さんの手から箒(ほうき)を取りあげようとした。
「喪主がこんなことしとんさったら、いけんが」
その時、端田のおばちゃんが教会から出てきた。
「まーあ一奥さん、何しとるだあー」
3人で箒の取り合いが始まる。
風が会堂の窓ガラスを鳴らし、落葉を躍らせた。
あと4時間で、先生の前夜式が始まる。(おわり)

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