思い出の杉谷牧師(2)下田ひとみ

 

2 死んでもいい

先生は旧日本軍の激戦地、西部ニューギニアから、死線を彷徨(さまよ)い、奇跡的に生還した復員兵のひとりだった。21歳の時に出征。白骨部隊とあだ名されたニューギニアの戦場、ジャングルで5年間を過ごし、敗戦を迎えた。
戦地で結核を患(わずら)った先生は、帰国後、兵庫県三田市にあったサナトリウムに入院する。
闘病生活は10年に及び、その間の度重なる手術によって、両肺をほとんど半分ずつ失っていた。後遺症による息苦しさや気管支の弱さは、長引く風邪や絶え間ない咳(せき)となって、絶えず先生を苦しめているのだった。
「いつ何が起こるかわからん。話せるうちに話しておきたいと、つい欲張りになってしまってなあ」
そんな言葉を聞くと、私たちはもう何もいえなくなってしまうのだった。晩婚でひとまわり年下の奥さんとの間にできた道子ちゃんと泉ちゃんは、まるで孫の年だった。
「せめて道子の花嫁姿を見るまで、生きていられたらなあ」
そうつぶやいていたこともある。
この願いが叶(かな)うことはなかったのだったが……。

先生が療養生活を送ったサナトリウムの中では、バイブルクラスが盛んに行われていた。
「最初は療養所にいても退屈だったからなあ、ただ暇つぶしにその勉強会に行っとったんだよ」
けれど学びが進むにつれて、先生はこの会が重荷になってたまらなくなってきた。
「『杉谷さん、勉強会に行きましょう』。そう呼びに来る人の声が聞こえると、わしは窓から逃げ出したこともあったよ」
おそらくそんな生活の中のことだったと思われる。先生は初めての恋をした。
どうしてその話を先生がしてくれたのかわからない。もしかしたら、それは私だけが知っていることなのかもしれない。誰もいない教会堂で先生とテーブルについている時に、唐突に、言葉数少なく、物語は語られたのだった。
くわしいことを先生は何もいわなかった。ただ、それがある理由で実らなかったということだけ、教えてくれた。
「その人と結婚できないとわかった時、死んでもいいと思ったよ」
それは春の夕暮れ時で、窓から入りこんできた風が先生の髪を乱していた。
愁(うれ)いをたたえた横顔に、前髪がひとすじかかる。
「死んでもいいと思ったよ」
テーブルの1点をじっと見て、先生は同じ言葉を繰り返した。

その恋の結末と先生の入信決意とがどのように関わり合っていたかは神のみがご存じであろう。
やがて先生はバイブルクラスに積極的に関わっていくようになり、昭和29年、33歳の時、受洗。バイブルクラスを運営し、盛り上げる中心人物のひとりになっていく。
バイブルクラスで教えていたのは稲村マサ子という婦人牧師だった。36歳で未亡人となり、5人の子供を抱える身でありながら、夫のあとを継ぎ、牧師となって三田にある三輪教会を牧会。夫の遺志である療養所での伝道もつづけていた。
丸顔にひっつめ髪の、優しい笑顔の婦人。しかし、こと信仰に関してはきびしく、妥協せず、道ひとすじだったこの稲村牧師に、先生は大きな感化を受けたと想像される。
その後、身体が回復して退院した先生は、時計店を営むべく技術習得の旅に出るのだが、その途上において思うところあり、牧師になる決心をするのである。
しかし道は平坦(へいたん)ではなかった。神学校で学んでいる間に結核が再発。無念の入院生活は4年間に及んだ。神学生、伝道師を経て、初志貫徹し、晴れて牧師になったのは51歳の時だった。(つづく)

 






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