思い出の杉谷牧師(6)下田ひとみ

 

 ストラウム先生の天国

ある冬の夜のことである。
そのころ求道者の香奈江さんはストラウム先生にルターの小教理を学んでいた。
その夜はもうひとり求道者がくるはずで、先生はその人の好物のクッキーを焼いて待っていた。だが、始まりの時刻を過ぎても何の連絡もないままにその人はあらわれず、香奈江さんひとりだけの学びが始まった。
「彼女は時々約束を忘れます」
その人にかぎらずこういうことはめずらしくはないようだった。先生の寂しげな微笑を見ながら、宣教師の生活というものについて、香奈江さんは考えさせられてしまった。
母国を去り、同胞と別れ、言葉の違う異国での暮らしとはどういうものなのだろうか。文化と習慣、意識の違い。気候風土・食物の違いなど。おそらく実際に経験した者でなくてはわからない、幾多の困難があるのに違いない。
日本の太陽は北欧人の眼には光が強すぎると、香奈江さんは聞いたことがある。梅雨の季節には決まって体調を崩す宣教師がいたし、ホームシックで気持ちがふさぎ、朝、起き上がれない宣教師がいるとも聞いた。
パール・バックの『戦う天使』では、宣教師たちの想像を絶するような荊棘(いばら)の生活が赤裸々に描かれている。貧困、差別、病気、迫害、死別、孤独──。
しかしそれらのすべてを神に委ね、宣教という名のもとに彼らは自らを献(ささ)げたのだ。

その夜の香奈江さんとストラウム先生との学びの箇所は、天国について記されているところだった。
「私はこういうふうに考えます。天国というのは、イエス様がおられ、そのまわりにイエス様を信じる人たちがいるところです。そこではいつでもイエス様の話を聞くことができ、イエス様の姿を見ることができます」
先生の日本語はいつものようにたどたどしく、つたなかった。自信のなさが手伝ってか、ともすれば語尾も消え入りそうだ。
しかし香奈江さんはその憧れのこもった声の調子に目を見張らされた。それを語っている時のストラウム先生の表情に魅せられてしまったのだ。外では雪がふぶき、寒風がうなっていた。だがストーブのある宣教師館は暖かく、静かだった。箱形のランプが部屋を琥珀(こはく)色に染めている。
その時先生は、黒地に赤や黄や緑をちりばめた編みこみ模様のカーディガンを着ていた。それにきらきらと輝く青い眼が映し出され、先生の姿がまるで夜空の星のように見えた。
「心を奪われるとはあのようなことをいうのですね」
後に洗礼を受けた際の祝いの会で、香奈江さんはこの時のことをこう明かした。
「その時私は自分がどこにいるのかを忘れてしまっていました。温かいものを体中に感じ、先生と一緒に、まさに天国にいるような気持ちになっていたのです。先生の隣にイエス様や大勢の聖徒の姿が見えるようでした。先生は天国をほんとうに信じておられるのだと、そのことがよくわかりました。先生にとって天国とは、信仰によって想像で思い描くものでなく、現実だったのです。帰り道、雪の中を歩きながら、涙が止まりませんでした。理屈ではわかっても、それまでどうしても実感できなかったこと、神様がおられること、天国が在ることが、私に初めて信じられたのです」(つづく)

 






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