日本基督教団・燕教会が国登録有形文化財に 教会献堂90周年で

日本基督(キリスト)教団・燕(つばめ)教会(新潟県燕市中央通2-3-48)を国登録有形文化財に登録するよう、国の文化審議会(佐藤信会長)が20日、文化財分科会の審議を経て文部科学大臣に答申した。登録は、答申後に行われる官報告示をもって正式決定となり、燕教会は文化財登録原簿へ登録される。

日本基督教団・燕教会の外観(燕教会のフェイスブックから)

これで燕市に所在する国登録有形文化財は、大河津分水洗堰、玉川堂店舗・鍛金場・土蔵・雁木、燕市旧浄水場配水塔、今井家住宅(主屋・西洋館・新座敷)、今井銀行店舗の5箇所の11件となる。

燕教会は1930(昭和5年)年、金物問屋の久保田重松(くぼた・じゅうまつ)商店(通称:花松)の久保田重松氏が私財を投じて建築し、64年と70年に増築された。今年、教会献堂90周年を迎えた。JR弥彦線の燕駅南口から東南に250メートル、徒歩3分のところにある。地域の景観を形成する木造教会で、市の中心部に位置する木造洋風建築。登録基準は、国土の歴史的景観に寄与しているものに該当する。

日本各地で多くの西洋建築を設計したことで知られるW・M・ヴォーリズに設計を依頼したと伝わっており、新潟県内に現存する数少ない歴史的キリスト教建築の一つ。一時は取り壊しの案も出ていたが、同教会の牧師らの活動によって補修や調査が進み、建造当時の姿が維持されている。木造2階建て切妻造り桟瓦(さんがわら)葺(ぶ)きで、細長い平面形を呈し、前後に突出部を設ける。外壁は下見板張(したみいたばり)で、2階に半円アーチ窓を並べ、正面妻に十字架を掲げる。

教会が建てられた当時、現在の新潟燕線の道路の東側はほとんど草原で、はるか向こうに燕小学校の校舎、また弥彦線の線路の土手の上を蒸気機関車に牽(ひ)かれた列車が時たま走るのを見られたぐらいだったという。そこに建てられたしゃれた洋館は、町中の目を引き付けたと思われる。

当初から1階を保育園、2階を礼拝堂として計画され、燕町におけるキリスト教伝道の拠点となるとともに、教会内にあった私立「喜久(きく)保育園」は当時、燕町の主要産業だった金属加工製造業に従事する多くの人を支えた。共働きで子どもの世話ができない人々の助けになろうと、久保田氏が志して保育事業を始めたという。

久保田氏は1900(明治33)年、キリスト教同信会の浅田又三郎により洗礼を受けたキリスト者だった。21(大正10)年に息子の喜久松が夭折(ようせつ)したことから、その9年後に始められた園の名前を「喜久松」から取って「喜久保育園」と名づけた。そして翌年、新潟教会の支教会(伝道所)として燕教会が創設された。燕市ではただ一つのキリスト教会だ。礼拝堂の収容人数はおよそ40人。

日本基督教団・燕教会の礼拝堂(燕教会のフェイスブックから)

燕市は新潟県のほぼ中央部に位置し、金属加工を中心に栄えたこともあり、「職人の町」と呼ばれた。現在も日本を代表する金属加工製品の一大産地で、機械や自動車部品の製造が非常に盛んだ。

燕に最初にキリスト教が伝えられたのは、1875(明治8)年、英国のエディンバラ医療宣教会から新潟に派遣された医療宣教師T・A・パームによる。パームは26歳で、結婚したばかりのメアリと共に来日し、翌年1月、長女が誕生するが、出産後間もなく妻子ともに亡くなる。そんな悲しみの中にありながら、4月から新潟で医療伝道を始めたのだ。

帰国する1883年まで、新潟県下十数箇所に伝道所を設置して定期的に巡回したほか、新潟最古の私立病院であるパーム病院を運営した。80年までに88人がパームから洗礼を受け、翌年には会員73人で新潟教会(現・日本基督教団・新潟教会)を組織した。83年の報告の手紙にパームは次のように書いている。「私は毎月1、2回、燕に行くことにしました。そこの集会は医者がおもに集まります。町の有力者が幾人かそこにやって来て、キリスト教についての質問をしました……」

燕教会の田中弘子牧師は、今回の国登録有形文化財登録についてこう語る。

「小さな教会で、維持もたいへん困難なのですが、かつての先達の信仰の証しとして守っていくことができますようにと、また、これをきっかけに地域の方々からの応援が得られますようにと願っております」

 

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