【連載小説】月の都(22)下田ひとみ

 

 

早春の息吹(いぶき)が感じられる日々の中、名倉牧師の家庭にも春が訪れようとしていた。真沙子が妊娠したのである。

三日月の夜。どこかで犬の遠吠えが聞こえている。

謙作と真沙子はキッチンのテーブルで向かい合っていた。襖(ふすま)の向こうの子供たちは寝静まっている。

「今度はきっと女の子だよ」

「そうだったらいいんだけど」

「名前は何にする」

「秋に生まれるから秋子」

「やっぱり女の子にしちゃってる。ほらマコだって、今度は女の子が欲しいだろ」

「そりゃあ、そうだけど……

「では、女の子に決定。秋子じゃそのまんますぎるかな。秋といえば七草。マコ、秋の七草って知ってる?」

「春の七草なら知ってるけど。セリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベ、ホトケノザ、スズナ、スズシロ。これぞ七草」

「さすが、もと文学少女」

「でも、秋は何だったかしら」

茶の間の本棚から国語辞典を取り出すと、真沙子は七草のページを読み上げた。

「ハギ、オバナ、クズ、ナデシコ、オミナエシ、フジバカマ、アサガオ」

「朝顔って秋?」

「今の朝顔とは違う花なんじゃないかしら。『アサガオの代わりにキキョウを数えることもある』って書いてあるわ」

「それだ!」

「キキョウが?」

「ぼくの好きな花なんだ」

真沙子のお腹に向かうと、謙作は嬉しそうに呼びかけた。

「キキョウちゃん。お父さんだよ」

 

たしかに幸せに違いなかった。子供が生まれる。そのことを喜ぶ夫。兄弟ができるとはしゃぐ子供たち。

藤崎陶子は、心配されていた病気の再発もなく、今ではすっかり教会に馴染んでいた。真面目で仕事熱心。役員たちの信頼も厚く、謙虚で優しい人柄が周りの人々に愛されている。牧師の仕事の負担も軽減し、その分を新しい領域に向けることができると、謙作は張り切っていた。

しかし真沙子は、陶子について、手放しで喜べない何かを感じていたのである。

それはたとえば、笑顔で対応しているのに、テーブルの下で緊張のために震えている陶子の膝をたまたま目撃したとか、爪を噛みすぎて深く傷ついている指に何かの拍子に気づいたりとか、そういうたぐいのささいなことであった。が、真沙子には見過ごすことができなかった。

「藤崎先生、困ったことがあったら、何でも私に相談してくださいね」

真沙子は陶子によくこう声をかけたものである。

そんなとき陶子は「はい」といって穏やかにほほ笑む。だが、それだけであった。陶子の心には踏み込めない壁があると、真沙子はいつも感じていた。

陶子を食事に招いたり、一緒に買い物に行ったりなど、家族ぐるみで親しくなるように努めていた。そんな時の陶子は、いつも自分から進んで子供たちの世話を引き受けてくれた。本を読み聞かせしたり、ゲームをしたり、公園に連れていったりしてくれる。子供たちも陶子を慕っていた。それはそれで助かるし、ありがたくもあったのだが、一方で真沙子は、そのことを心苦しくも思っていたのである。

「藤崎先生がうちの教会に来られることになったのは、ケンちゃんのがんばりがあったからでしょう。きっとそのことを恩に感じておられるのよ。もっと本音で接してくださるといいんだけど。無理をされてるんじゃないかって、心配で……

「マコの思い過ごしだよ。大丈夫。藤崎先生は子供好きなのさ」

謙作は笑って受け流していた。

しかしそれは、身重の妻に心配をかけさせまいとの配慮であった。

実際は、謙作は真沙子以上に、陶子について危惧の念を抱いていたのである。

傍目(はため)にはわからないようにしていたが、陶子を教会に迎え入れて以来、謙作は陶子の一挙手一投足を念入りに観察していた。そのために彼の心はいつも張り詰めており、一人でいるときの独り言の癖も、このところめっきり増えていた。(つづく)

月の都(23)

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