【連載小説】月の都(4)下田ひとみ

 

 

話はふたたび1カ月前の謙作に戻る。

今は誰にも会いたくないと教会でひとり過ごした謙作は、やがて覚悟を決めてアパートヘと帰っていった。

謙作が帰宅した時、真沙子は夫の異変に気づかなかった。

「お父さんだ!」

「おかえりなしゃーい!」

はしゃいで玄関に出迎える子供たち。

「ただいま。遅くなってごめんね」

謙作はいつもと変わりなく子供たちに機嫌よく接していたし、真沙子は夕食の支度で忙しかったからである。

けれど食事の時になって、夫の様子がいつもと違うことにようやく気がついた。

謙作は大変な子煩悩(こぼんのう)である。「本を読んで」とせがまれれば、テレビのスイッチを消して応じるし、お風呂もできる限り一緒。子供たちの他愛のないお喋(しゃべ)りを形だけで聞き流すということも、よほど疲れているとき以外は、まずない。子供との約束も極力守る。

牧師という仕事がら、急病人のもとに駈(か)けつけたり、トラブルの仲裁や、緊急を要するカウンセリングなど、突発的な用事で家を留守にするのは日常茶飯事であった。

だが、その埋め合わせに謙作は、休みの日には子供たちと一緒に過ごすし、普段でも時間のある時は、近所の小川に子供たちを連れていって、ザリガニを獲ったり、赤とんぼをつかまえたり、カブト虫の幼虫を木の根元から掘り出したりして、子供たちを喜ばせた。

ただ欠点は、その分、妻のことまで気が回らないということ。

真沙子のお喋(しゃべ)りは聞き流すし、見当違いの頷(うなず)きやうわの空の返事は毎度のこと。妻がダイエットのために涙ぐましい努力をしていることにも無頓着(むとんちゃく)である。妻が大好きなチョコレートをあきらめたのも知らないし、少しでもほっそり見せようとヘアースタイルを変えても、気づいた様子はなかった。

「私、どこか変わってない?」

試しに尋ねてみたら、「うーん」と真沙子を眺(なが)めたあとで、自信ありげに言った。「ちょっと太ったかな」

それにしても、今夜の謙作は絶対におかしいと、真沙子は思った。子供たちのお喋りにも生返事で、心ここにあらずといった感じ。妻の話を聞き流しているというより、眼を合わさないように視線を微妙に泳がせているのである。

謙作と真沙子は神学校で知り合い、結婚に至った仲であった。

日本クリスチャン・セミナリーという名のその神学校は、絵画や音楽、文学なども取り入れたキリスト教芸術の学びにも力を入れていた。そのためにユニークな学生が集まり、気さくなアメリカ人の教授が多かったせいもあって、学内はフレンドリーな雰囲気に満ちていた。

中でも謙作と真沙子のクラスは学生同士の相性がよかった。全寮制ということもあって、誰もが仲のいい大家族の一員のような気持ちで暮らしていた。こんな環境にあって、謙作と真沙子は入学したての早い時期から「ケンちゃん」「マコ」と呼び合う仲となり、この呼び方は(教会員の前では控えているが)現在に至るまで続いている。ちなみに浅香台キリスト教会で、謙作は「名倉先生」、真沙子は「真沙子先生」と呼ばれていた。

食事はもうすぐ終わりであった。友樹と翔がデザートの梨に手を伸ばしている。

「おとーしゃん、あとでガラガラドン読んでね」

翔が甘えて言った。

「あ、うん……お風呂のあとにね」

途端(とたん)に友樹の大声が上がった。

「お父さんの忘れんぼうー。さっき、風邪ひいてるから、お風呂入っちゃ駄目って言ったじゃない」

「そうだった……ごめん」

やっぱりおかしい。

湯呑みにお茶を注ぎながら、さりげなく真沙子は尋ねてみた。

「ケンちゃん、何かあった?」

「あとで話すよ」

謙作は淡々と返事をした。(つづく)

月の都(5)

 






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