【連載小説】月の都(40)下田ひとみ

 

謙作は感情を抑えられずに泣き続けている。そんな謙作に、やがて城島は姿勢を正すと、語り始めた。

「昔、父から聞いた話ですが、ある教会で、藤崎先生と似たようなことがあったそうです。そこは大きな教会で、主任牧師のほかに副牧師と伝道師がいました。その副牧師が自殺したのです。その教会では、心の病気を患っていた副牧師の病歴を承知の上で受け入れていたのですが、いざそうなってみると、周囲は主任牧師一人に非難の眼を向けました。管理責任を怠ったというのが理由です。その牧師は攻撃や中傷に耐えきれず、やがて別の教会へと移りました。けれど、自責の念から逃れることはできず、神経がすっかりまいってしまい、ついには牧師を辞め、まもなく亡くなってしまわれたということです」

城島は言葉を切り、「名倉先生」と言って謙作に告げた。

「藤崎先生の死は、本当に、非常に、残念なことでした。けれど、このことで私たちが自責の念を持つ必要はありません。名倉先生も、我々も、できる限りのことをしたのです。どうしてこんなことが起こったのか、それは誰にもわかりません。ただ、このことをしっかりと受けとめ、学ぶべきものがあれば、そこから何かを学ぶ。このような悲劇の中にさえ、そこには何らかの神の意思があると信じて、すべてを神に委ねる。そういう姿勢を保つ。それが肝心なことだと思います。そうでないと、先ほどお話しした教会の人々のように、この主任牧師のように、自滅してしまう。

私は藤崎先生の遺体を見た時、もうこれで先生は苦しみから解放された、よかった、と思いました。よかったなんて、無責任で、心ない、ある意味、大変残酷な言葉です。でも、そう思ってしまったものは仕方がない。人間なんて、その程度のものなんです。

同じように、名倉先生が藤崎先生の自死を知って、ホッとした、その思いに誰も指は差せません。先生を誰も非難はできないんです。

むしろ、私はこう考えてもいいのではないかと思います。名倉先生は長い間、お母さんを助けられなかったという思いに苦しんでおられた。その自責の念が、藤崎先生の死によって解放されたのだ、と。お母さんが自死されたという過去に、その時ひとつの区切りがついたのです。

もちろん、このことのために藤崎先生の自死が必要だった、というのではありません。そのためにこのことが起こったと考えるのは間違っています。あえて言うなら、たとえば毒草から薬が抽出(ちゅうしゅつ)されるように、悪いものから、悲劇の中からも、役に立つものが得られることがある、そういうことです。

悲劇が起こるたび、私たちはそのことの意味を考えます。答えが欲しい。でも、ほとんどの場合、わからないのです。お母さんの自死も、藤崎先生の自死も、どうしてこんなことが起こったのか、誰にもわからない」

城島はテーブルの上に視線を移した。そして、まるでそこに答えが書いてあるかのように、しばらくカップを凝視していた。

「それでも残された者たちは、生きてゆかねばなりません。亡くなった人たちの魂の行く末は、愛なる神に委ねて。こんな時こそ、助け合って、支え合って、私たちは生きてゆくのです。こんな経験をした者たちこそ、人を真に思いやり、人の慰め手となって生きてゆける。そのことを、信じるのです」

城島は謙作を慈(いつく)しみに満ちた眼で見た。

「名倉先生、どうかもう苦しまないでください。私も教会の人たちも、みんな先生が好きなんです。真沙子先生や友樹君や翔君、先生ご一家が好きなんです。だから、教会に留まっていただきたいと、嘆願書まで出したんです。『生活のことを考えて、辞めるのを思いとどまった』。立派な理由じゃありませんか。家族の幸せを考えないような者に、教会を任せられますか。『峰岸先生ご夫妻への恩返しに献身した』。あっぱれです。こんな世知辛(せちがら)い世の中に、なんと先生は感心な若者じゃありませんか。献身に導かれるといっても、人それぞれです。みんなに明確な召命感があるわけではありません。みんなが神様の声を聞いたり、幻を見たりするわけではありません。あの峰岸先生と出会って、先生から洗礼を受け、そして献身した。それだけで十分なんです」

顔を上げた謙作の眼をとらえて城島が告げた。

「先生は間違いなく神の選びの器です。名倉先生は、峰岸先生ご夫妻の、長年の祈りの答えなのです」

謙作は唇をきつく結んで、窓の外に眼をやった。

テラスの向こうの海に、陽光が降り注いでいた。(つづく)

月の都(41)

 






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