【連載小説】月の都(43)下田ひとみ

 

志信は衝撃のあまり身動きひとつできないでいる。

そんな志信を見て紘子はため息をついた。

「桐原さんは……やはり、ご存じではなかったんですね。あるいは、あなたになら、滝江田はもしかしたら打ち明けていたかもしれないと思ったのですが……」

「どうして……? 滝江田はあんなにあなたのことを……」

それは紘子にとってつらい質問であった。

志信から眼を逸らすと、テーブルの一輪挿しを見て言った。

「夫婦のことは、その夫婦にしかわからないとは、よく言われる言葉ですが、本当にそう。お話ししたところで、わかっていただけるかどうか……。でも、お話ししなければ、こちらに伺った意味がありませんので、恥を忍んでお話しいたします。

考えてみれば、滝江田とは、本音で話をしたことなんか、一度もなかったような気がします。お互いを理想化して結婚して、結婚したあとでは、それを保っていくのに一生懸命で……。

そもそも、無神論者である滝江田とわたくしが結婚したということからして、無理があったのです。滝江田と出会う前、わたくしは聖書を愛読しておりました。教会へ行ったこともありませんし、洗礼も受けておりませんでしたが、わたくしは聖書を読んで、神様がもし本当におられるなら、それはこの聖書の神様に違いないと、わたくしなりに信じていたんです。ですが、滝江田と出会ってからは……」

滝江田の影響で次第に無神論に傾倒していったこと。ついにキリスト教に別れを告げ、滝江田と結婚したこと。しかし、結婚後に、聖書の神に心がふたたび帰っていってしまったこと。夫に気兼ねしながら教会に通い続けたことや、洗礼を受ける決心をした時の苦しみなどを、紘子は切々と語った。

「わたくしは滝江田に聞いてもらいたかったんです。どうして教会へ通うようになったのか、どうして洗礼を受けようと決心したのか。でも、滝江田は無関心でした。何もわたくしに尋ねようとしない。わたくしの内面に本気で関わろうとしないんです。わたくしは孤独でした。子供がいれば……よくそう思ったものです。でも、その頃のわたくしは、すっかり子供をあきらめていました。

ところが40を前にして、子供を授かったんです。皮肉なものですね。滝江田の子供ではありませんでしたが……。悩みに悩み抜いた末、わたくしは滝江田の子供として産み、育てる決心をしました。子供が欲しかったんです、どうしても。もう若くはありませんでしたから、最後のチャンスだと思いました。子供のためなら、どんなことでもする覚悟でした。この秘密はわたくし一人の胸の中、墓まで持っていくつもりでした。でも、滝江田が洗礼を受けて、わたくしはわからなくなったんです。滝江田の本心が、滝江田という人間が……」

洗礼を受けると言い出した時の病床での一部始終を語り始めた。お茶を一口飲むと、そのあとも憑(つ)かれたように紘子は語り続けた。

「滝江田は……あの人は、決して自分を、自分の心を、裏切るような人間ではありません。だから、いまだに信じられないんです。どうしてあの時、洗礼を受けると言い出したのか。もしかして、勲の秘密を知っていて、わたくしを苦しめるため、わたくしに復讐するために、だから洗礼を受けたのではないかと、わたくしは疑っています。

滝江田が癌(がん)を患ってから、わたくしは教会から遠ざかっていました。教会に行き続けることに苦しみを感じていたこともありますが、最後の日々を滝江田とひとつ心で過ごしたい、それが一番の理由でした。それなのに滝江田はキリスト教に回心してしまったのです。わたくしはこれをどう受けとめればいいのかわかりませんでした。最後の最後になって裏切られたように感じました。

あることがきっかけとなって、わたくしは信仰的に立ち直り、今は心穏やかな日々を送っております。こうなってみると、滝江田が形だけでも洗礼を受けてくれたことが、ありがたく、今ではそのことに、皮肉ではなく、神様に心からの感謝を覚えています。でも、わたくしは知りたいのです、どうしても。滝江田が洗礼を受けた、そのわけを──」(つづく)

月の都(44)

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