【連載小説】月の都(6)下田ひとみ

 

 

秋が過ぎ、立冬が訪れた。

暦の上では冬。北国からは初雪の知らせが届き、色づき始めた山々に木枯らしが吹き渡る。

ふみはその日、朝から落ち着きがなく、そわそわとしていた。定刻より早く起き出し、食事の支度も手早く済ませている。いつもなら志信が家を出てから始める洗濯も、今朝はもう洗濯機を回していた。障子(しょうじ)に叩(はた)きをかけ、廊下を拭(ふ)き、庭を掃(は)き清める。その合間にも、時間が気になるらしく、何度も時計に目をやっていた。

志信はそのことに気づいていたが、特にわけを尋ねるということもせず、家をあとにした。

夫を送り出したあと、雨が降ってきたので、傘を持って追いかけようとしたが、玄関口まで出て、ふみは足を止めた。おそらく折畳(おりたた)み傘を持っていっただろうと思い直したからである。

夫を見送るとき、ふみは毎朝あれこれと世話を焼くのが常であった。寒い朝は懐炉(かいろ)を持ってくるし、汗ばむ朝はハンカチを余分にポケットに忍ばせる。靴の汚れを点検するし、ネクタイを整え、結び具合を確かめる。陽射しのきびしい日は帽子を渡し、冬は襟巻(えりまき)を用意する。曇り空のこんな朝は、傘を差し出すのを忘れない。

それなのに今朝は、志信が傘を持って出たかどうか覚えていないのである。ふみにはめずらしいことだった。今日の外出に、それほど気をとられていたのである。

 

駅前の骨董(こっとう)店主である川北に、藤崎陶子について尋ねたのは、ひと月前のことであった。

「どういう方なんですの?」

川北は80歳を超えていると思われる矍鑠(かくしゃく)とした老人で、目利(めき)きで知られた彼の店には遠来の客も多かった。綺麗好きな妻がいつも表のケースを鏡のように磨(みが)き込んでいる。

「私はよく知らないんですが、縞本先生のお弟子さんではないようですねえ。先生のお孫さんの初舞台ということで、今回はお祝いに特別に踊られたらしくて。綺麗(きれい)な方ですねえ。女優さんだったみたいですよ」

「女優さんですか」

ふみの胸は高鳴った。

「昔のことらしいですけど。昔といっても、まだお若い方だから」

「どこに行けばお目にかかれます? また舞台に出られる予定があれば、ぜひ伺わせていただきたいんですが」

「先生にお尋ねしてみましようか」

「ありがとうございます。よろしくお願いいたします」

 

しかしそれ以後、何の連絡もなかった。あきらめかけていたところ、昨夜になって川北が電話をかけてきたのである。

「以前お尋ねになった藤崎さんのことですが。教会の先生だということで、明日、本田さんというお宅で集会があるそうです。本田さんのお宅は春日(かすが)ノ森で、そこに行けば藤崎さんにお目にかかれます。出席なさいますか」

いきなり要領の得ない話をされて、ふみはひどく戸惑ってしまった。

「教会って?」

「キリスト教の教会で、名前は何といいましたかな。ええ、と……浅香台キリスト教会です」

「先生って、何の先生ですか」

「さあ、それは、私には……

「集会って、どういう?」

「さあ……藤崎さんが先生になられて初めての集会だということで、縞本先生に案内があったそうなんですが、先生も集会のことについてはあまりご存じないみたいです。その日はほかに用事があると言っておられましたし……。それで、せっかくのお誘いなので、どなたか出席できないか、それで桐原さんのことを先生が思い出されたと、こういう次第です」

ふみが会いたがっていると、縞本先生は陶子本人に伝えたのだという。

「そのことを知って、藤崎さん、大変喜ばれたそうで、『私もお目にかかりたいので、桐原さんに、ぜひ集会へいらしてくださいと伝えてほしい』ということです」

それを聞いて、ふみは集会へ行く決心をしたのである。(つづく)

月の都(7)

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