台風10号で世界文化遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」に被害 大浦天主堂など

6日から7日にかけて非常に強い勢力のまま九州の西を通過した台風10号。長崎県も暴風域に巻き込まれ、世界文化遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の構成資産の一つ、大浦天主堂(長崎市南山手町)の屋根瓦(がわら)約50枚が吹き飛ばされた。

同遺産の構成資産ではほかに、「久賀島(ひさかじま)の集落」にある旧・五輪(ごりん)教会堂(長崎県五島市)で屋根の一部がずれて雨漏りがし、アーチ型の窓ガラスや外壁の一部が落ち、正面入り口付近の桜の大木が根元から折れた。

また、同じく構成資産の一つ「外海(そとめ)の出津(しつ)集落」にある遠藤周作文学館(長崎市東出津町)も7日未明、板張り屋根の一部が剥(は)がれたほか、開架閲覧室の窓ガラス1枚が割れた。「旧出津(しつ)救助院」(同市西出津町)では瓦がずれるなどした。

市指定史跡「ド・ロ神父 大平(おおだいら)作業場跡」(長崎市西出津町)は、石積みの保存修理工事のために設置していた高さ約8メートルの素屋根が倒壊し、石積みも一部崩落した。

祈念坂から見た大浦天主堂(写真:Houjyou-Minori)

大浦天主堂(国宝)は、禁教以来250年ぶりに潜伏キリシタンが発見されたところ。1865年、完成したばかりの大浦天主堂を浦上の潜伏キリシタン十数名が訪れ、フランス人のプチジャン神父に自分たちが信者であることを告白したのだ。この「信徒発見」のニュースが当時の教皇ピオ9世に知らされたとき、教皇は感激して「東洋の奇蹟」と呼んだという。日本に現存するキリスト教建築物としては最古で、日本二十六聖人の殉教地である長崎市西坂に向けて建てられている。

旧・五輪教会堂内部(写真:Indiana jo)

 

旧・五輪教会堂(国指定重要文化財)のある久賀島は、五島列島の中で福江島、中通島に次いで3番目に大きい。明治政府が潜伏キリシタンを大規模に弾圧した「五島崩れ」(1868~69年)の発端となった島だ。明治元年の「牢屋(ろうや)の窄(さこ)」殉教事件では、200人もの信徒がわずか6坪の牢に収監され、拷問などで42人が殉教している。そのような弾圧を生き抜いた信徒たちが1881(明治14)年に建てたのが、五島列島最古の木造教会、旧・五輪教会堂(国指定重要文化財)。長崎県にある教会堂としては、大浦天主堂に次ぐ古さを持つ木造教会であり、創建当時の姿を今も残している。

遠藤周作文学館(写真:ATSUSEPO)

遠藤周作文学館は2000年の開館。同館が建てられた外海地区には、遠藤が小説『沈黙』(1966年)を書き下ろすため、何度も取材に訪れ、同地に当時実在した黒崎村を、小説では「トモギ村」として登場させた。後にこの地を「神様が僕のためにとっておいてくれた場所」と言い、87年にはこの地に「沈黙の碑」が建立された。96年に帰天した後、文学館建設構想が持ち上がった時も、同地がいちばんふさわしいとして建設された経緯がある。手元に残された約3万点にも及ぶ遺品・生原稿・蔵書などが遺族から同館へ寄贈・寄託された。

旧出津救助院(写真:Indiana jo)

旧出津救助院(国指定重要文化財)は、女性のための授産施設として、1883(明治16)年にフランス人宣教師ド・ロ神父によって創設された。フランス貴族の家に生まれたド・ロ神父が78年に出津教会の主任司祭として赴任してきたところ、村人のあまりの貧しさに衝撃を受け、実家から譲り受けたすべての財産を惜しみなく献(ささ)げた。この地では孤児や捨子も多く、海難事故で夫や息子を失った家族が悲惨な生活を送っていたため、生活を向上させて自立する力を身につけさせようと、布教活動のかたわら、孤児院や救助院、診療所をつくって社会福祉活動を始めたのだ。

神父自身がフランスで身につけた印刷・土木・建築・工業・養蚕業・綿織物の製糸から製織、染色などの技術も人々に教え、農業や漁業指導、医療事業、教育事業など、さまざまな活動も行った。また、そこで製造されたパン、マカロニやパスタ、醤油などを販売し、少しでも生活の足しになるようにした。特に、故国から小麦粉を取り寄せ、落花生の油を使用するという神父のアイデアによる「ド・ロさまそうめん」は人気商品となり、今も名物。

救助院の施設群の中心となる授産場は、桁行約19・4m、梁間約5・2mの2階建てで、洋風技術との折衷的工法が用いられている。また当時、日本で行われていた石積みの接合が雨に弱いのを見て、代わりに赤土を水に溶かして石灰と砂をこね合わせたもので接合し、地元の自然石を不規則に積み重ねた頑丈な「ド・ロ塀」を考案し、授産場の基礎や壁体の大部分に使用した。

大平作業場は、ド・ロ神父が1884(明治17)年から17年かけ、農業振興の一環として、出津変岳(へんだけ)の原野を開墾して農園を開いたのに伴って建設された。1901年ごろの建築とされ、正面の一部がレンガ造り、全体が石造りの平屋で、「ド・ロ壁」の技術が用いられている。馬をつないだと思われる留金具なども残っている。

台風が来たのは石積み修理と保存のための工事が行われている最中で、10月中旬に完了の予定だった。整備前は、屋根がなく壁だけが残っている廃虚の状態だったが、最終的に屋根も本式に設置され、完成後は隣接する茶畑の茶葉で緑茶や紅茶を炒(い)る体験の場として利用できるよう、内部を整備する計画だった。

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