文化

NHK連続テレビ小説「エール」とキリスト教(3)「長崎の鐘」と永井隆

投稿日:2020年4月7日 更新日: -

 

NHK連続テレビ小説「エール」(月~土曜、午前8時)第4回に登場した、賛美歌が聞こえてくる教会のロケ地が日本聖公会・福島聖ステパノ教会であり、そのモデルは、W・M・ヴォーリズが日本で最初に設計した日本基督教団・福島教会だったことを述べたが、古関裕而(こせき・ゆうじ)が触れたキリスト教はプロテスタントだけではなかった。

1964年東京オリンピック開会式で整列する各国競技団(写真:Deutsches Bundesarchiv)

「エール」第1話(3月30日)では、1964年10月10日に行われた東京オリンピック開会式でのエピソードが描かれていた。自らが作曲した「オリンピック・マーチ」がそこで演奏されることになるのだが、作曲家の古山裕一(窪田正孝)は緊張に耐えかねてトイレにこもってしまう。妻の音(二階堂ふみ)がそれを見つけて連れ出そうとするが、それでも尻込みをする裕一。そこに警備員(萩原聖人)が居合わせて、こんな声をかけて裕一を励ますのだ。

「先生、自分は長崎の出身であります。親や兄弟、親戚、みんな死んだとです。生きる希望を与えてくれたのは先生の『長崎の鐘』です。先生の曲は人の心ば励まし、応援してくれます。先生の晴れ舞台ですけん。どうか、どうか会場で……」

その言葉に押されるようにして、大観衆が待つ国立競技場に出ていく裕一と音の後ろ姿から、舞台は一転、裕一が誕生した福島へと時代をさかのぼる。

永井隆

さて、ここに出てきた「長崎の鐘」。1945年8月9日、自らも被爆しながら被爆者の救護活動に当たったカトリック医師の永井隆(ながい・たかし)による『長崎の鐘』が戦後間もなくベストセラーになり、49年4月4日、同書をモチーフとした歌謡曲「長崎の鐘」が臨時発売され、大ヒットしたのだが、それを作曲したのが古関だった。

この曲を歌った藤山一郎は、これを歌うと「賛美歌のような敬虔(けいけん)な気持ちになる」と語った。また、作詞のサトウハチローも最初、ベストセラーに便乗したものと断ったが、その後、永井の著書を読んで「これは神さまがおれに書けと言われている」と確信し、全身全霊をささげて作詞したという。ちなみにサトウの母親はクリスチャンだった。

この曲をラジオ放送で聞いた永井はさっそく古関に、次のような手紙を送ってきた。

唯今(ただいま)、藤山さんの歌う、長崎の鐘の放送を聞きました。私たち浦上(うらかみ)原子野の住人の心にぴったりした曲であり、ほんとうになぐさめ、はげまし明るい希望を与えていただけました。作曲については、さぞご苦心がありましたでしょう。この曲によって全国の戦災荒野に生きよう伸びようと頑張っている同胞が、新しい元気をもって立ち上がりますよう祈ります。
(古関裕而自伝『鐘よ鳴り響け』日本図書センター、184頁)


この歌の大ヒットを受けて、松竹により同名の映画も製作され、古関はこの音楽も担当した。戦後初めて日本人によって原爆を取り扱った劇映画であり、永井の生涯が描かれたものだ。

その中に大庭(秀雄)監督の希望で、グレゴリアン・チャントを数か所用いた。昭和十年頃、私は四線譜のグレゴリアン・チャントの美しい旋律に魅せられ勉強していたのが、思いがけず活(い)かされ、効果を上げたのはうれしかった。何でもよく勉強しておくべきものと痛感した。
(同、186頁)

この映画も永井は観て、古関に次のように書き送っている。

すばらしい音楽で、涙をさそいました。録音機の傍らには目にこそ見えね、あの天使歌隊が勢ぞろいして歌っていたのではありますまいか? どうも人間の歌ばかりではない。

永井はその後もしばしば古関に手紙を書き、「どうか聖寵(せいちょう)ゆたかにあなたの上に降(くだ)り、美しい曲がうまれますよう」との祈りも記した。

終戦記念日には、自ら病床の中で編んで作った木綿糸のロザリオを送ってきたという。古関はお礼を返し、「長崎に行ったら伺います」と約束したが、51年、永井は白血病による心不全で亡くなる。

翌年、熊本中央放送局開局25周年記念式典に招待された帰途、古関は長崎に立ち寄り、永井が療養と執筆を行っていた庵(いおり)、巳如堂(にょこどう、イエスの「己の如く人を愛せよ」の言葉から)を訪れ、二人の幼い子どもに会って、「お父様に負けぬ立派な人になるように」と2本の万年筆を贈って励ました。

ところで、「長崎の鐘」を作曲するにあたって、古関はこのように考えたという。

これは、単に長崎だけではなく、この戦災の受難者全体に通じる歌だと感じ、打ちひしがれた人々のために再起を願って、「なぐさめ」の部分から長調に転じて力強くうたい上げた。
(同、183頁)

こうあるように、この曲はもの悲しい短調で始まるが、サビの「なぐさめ、はげまし」のところで明るい長調に転じる。永井の息子の誠一(まこと)はそのことに触れて、後に次のように述べている。

(このメロディーが転調するのは)古関さんが子供に対して温かい目を向けてくれていたのだろう。古関さんは父と同年代で、子供もいただろうからよく分かってくれた。
(齋藤秀隆『古関裕而物語』歴史春秋社、257頁)

ところで古関は戦時中、「露営の歌」も作曲している。「勝ってくるぞと勇ましく」と聞けば、誰もがその勇壮な節を思い浮かべることができる有名な軍歌だ。そのため、終戦直後に古関は、「戦犯になるから気をつけたほうがいい」と言われたぐらいだった。しかし、古関の性格は「露営の歌」から想像されるような好戦的なイメージとは真逆だ。たとえば陸軍病院に慰問に行ったおり、ステージに上げられて紹介されたのだが、マイクの前に立ったはいいものの、号泣してしまう。

多くの兵隊の顔を見た時、その一人一人の肉親が、無事に帰ることを祈っており、はたしてその中の何人が? と思うと、万感が胸に迫り、絶句して一言もしゃべれなく、ただ涙があふれてきた。
(『鐘よ鳴り響け』84頁)

そういう古関だから、自らの作品が歌われる中で悲惨な前線に送られて戦死していった人々への自責の念が生きている限りずっとあったと思われる。そうした鎮魂の思いと、子どもたちには何としても平和な未来をとのまなざしから生まれたのが「長崎の鐘」ではなかっただろうか。

カトリック浦上教会にはフランス製のアンジェラスの鐘(天使〈アンジェラス〉がマリアにイエス誕生を告げたことにちなんだ「お告げの祈り」を朝6時、正午、夕方6時に祈るが、その時を知らせるために教会の鐘が鳴らされる)が大小二つ取りつけられていたが、原爆で小さいほうの鐘は割れたものの、大きいほうは永井によって無事掘り出された。原爆で打ちひしがれた人々を奮い立たせようと、永井は丸太を組んでアンジェラスの鐘を吊り下げ、終戦から4カ月後のクリスマス、戦後初めて浦上一帯にその鐘の音を鳴り響かせた。建て直された浦上天主堂にはその鐘が吊され、今も1日3回、祈りの時を告げている。

NHK連続テレビ小説「エール」とキリスト教(1)日本基督教団・福島教会と日本聖公会・福島聖ステパノ教会

NHK連続テレビ小説「エール」とキリスト教(2)ヴォーリズとハモンド・オルガン

NHK連続テレビ小説「エール」とキリスト教(4)古関裕而が聞いた教会の鐘の音

NHK連続テレビ小説「エール」とキリスト教(5)金須嘉之進と「シェヘラザード」

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